はっきりした根拠はありませんが、北海道には珈琲好きな人が多いのではないでしょうか。自家焙煎の喫茶店が多いから?単純に北国だから、温かい飲み物が好きなのか?考えるうちに辿り着いたのは、北海道は一般庶民が初めて珈琲を口にした土地らしいという事実。どうやらその場所は、稚内の宗谷岬の辺り。幕末、北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃の珈琲史を遡ってみました。
不思議で魅惑的な珈琲という飲み物
人は一杯の珈琲に何を求めているのだろう?豊かな香りと深い味わい。カフェインによる覚醒効果。それとも、とっておきのコーヒーカップで楽しむ自分だけの時間だろうか……。人それぞれ求めているものは異なるに違いない。そして、珈琲そのものよりも、珈琲のある生活を求ている人が多いことだろう。
それにしても、珈琲とは不思議な飲み物である。コーヒーノキの「実」ではなく、「種」のほうを焙煎してから粉状にし、湯で抽出してから飲む……。こんな方法をいつ誰が思いついたのだろうか?
ほうじ茶など一部の茶葉も焙煎されることはあるが、焙煎が前提となる飲み物は、もしかしたら珈琲だけかもしれない。また、植物の種子が飲料になったものとしては、コーラ(コラノキ、アフリカの熱帯雨林原産の常緑樹)やガラナ(アマゾン原産のつる植物)がよく知られている。だが、これらの飲料は種よりも砂糖その他添加物の味が強い上、炭酸飲料である。珈琲とはずいぶん性格の違う飲み物となっている。
珈琲の起源はエチオピアとされる説が有力だ。5000年以上前から、エチオピアのオロモ族は潰した珈琲豆を動物の脂と混ぜて団子状に丸め、携帯食にしていたという。珈琲のカフェインと高カロリーの脂によって、気分がハイになるらしい。昔ながらの生活を送っている人の中には、今でもその風習が残っているそうだ。
イスラム圏から世界に広がった珈琲
現在のように飲料とするようになった歴史は、ワインやお茶に比べるとずいぶん新しい。文献によってその記述はまちまち。だが、珈琲が飲み物となったのは、13世紀頃のイスラム世界でのことらしい。トルコ、イラン、エジプトからは焙煎に使われたとされる道具類が発掘されている(15世紀頃のもの)。
珈琲の語源となっている「カフワ」が広がったのは15世紀以降のこと。カフワとはワインや茶などいろいろな飲み物を指す言葉。その中で珈琲豆から作ったカフワが15世紀のイエメンに誕生。それがイスラム圏に広がり、さらに世界中で愛飲されるようになっていく。ちなみに、アラビア語のカフワには「食欲を消し去る」という意味があるそうだ。それが珈琲の普及と共に「眠気を消し去る」という意味に転じたらしい。
ヨーロッパへ伝わったのは、16世紀末から17 世紀の話。イギリスは今でこそ紅茶の国のイメージが強いが、意外にもヨーロッパ諸国に先駆け、1650年にはコーヒーハウスが誕生している。他の欧米諸国にも、17世紀後半にはコーヒーショップができたり、家庭や職場で飲まれるようになっていく。
18世紀ともなると、抽出法や抽出器具も発達していった。それ以前は砕いた珈琲粉を水と一緒に火にかけ煮出すのが通常のやり方。トルコ式として今も残る抽出法だが、これでは味が落ちるのが早い。そこで、湯に浸けてから出す浸出式が人気となる。ちなみに、サイフォンは浸出式として今も残る珈琲の淹れ方。18世紀後半には、ドリップ式の原型と言える淹れ方も誕生していたようだ。
日本で最初に珈琲を口にした庶民は?
さて、日本に珈琲が伝わったのはいつのことか? 織田信長であるといった説もあるにはあるが、ヨーロッパに珈琲が広がったのが16世紀末以降と考えるとつじつまが合わない。17世紀末から18世紀にかけて、長崎・出島のオランダ商人たちが飲んでいたとするのが有力だろう。日本人としては、商館に出入りしていた役人、通訳、遊女らが飲んでいたという可能性が考えられる。しかし、正確な記録は残っていない。
1804年には文人の大田南畝(なんぽ)がオランダ人の船で珈琲を飲んでいる。
「焦げくさくして味ふるに堪えず」
珈琲の風味が当時の日本人の嗜好に合わなかったのか、それとも本当に不味かったのか。いずれにせよ、日本では長らく珈琲が普及することはなく、庶民とは縁のない飲み物だったに違いない。
特別な身分にはない人々が初めて珈琲を口にしたのは、意外にも北海道、それも場所は稚内の宗谷岬の辺り。
江戸末期は西洋の列強諸国が日本に迫ってきた時代。鎖国政策をとる日本に対し、外国船が近づく事件が頻発していた。中でも、当時の帝政ロシアは南下政策を積極的に進めており、北海道(当時は蝦夷地)周辺に姿を見せるようになっていた。1792年には大黒屋光太夫ら漂流船員の送還という名目で根室と箱館に来航。エカテリーナ2世の特使ラックスマンから国交通商を要求されることとなった。事態を重く見た幕府は、松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地とし(1799年)、1802年には箱館奉行所を設置。北方警備に力を入れるようになっていく。
浮腫(ふしゅ)病に苦しめられた幕末の藩士たち
そこで最北端の宗谷へ派遣されることとなったのが津軽、会津の藩士たちだった。東北出身者だから寒さには強いはず……というだけで連れてこられた藩士には、思わぬ過酷な世界が待ち受けていた。
それは東北とは比べものにならない厳しい気候。粗末な住居と保温性の低い衣服や寝具。加えて、野菜不足など偏った食生活が追い打ちをかける。大勢の人たちが浮腫病(水腫病)にかかって命を落とすこととなった。浮腫病とは、ビタミンC、およびビタミンB1、B3の欠乏によって起こる病気。水ぶくれになり、腹が太鼓のようになって苦しむという奇病で、当時は不治の病とされていた。宗谷に派遣された藩士たちは圧倒的にビタミンCが欠乏していたため、浮腫病にかかったと考えられる。
多数の越冬死者を出したことで、幕府は翌年から増毛まで南下して越冬することを認めることに。だが、不思議なのは「宗谷と増毛との間にどれほど気候の違いがあるのか」ということ。実際、増毛や留萌に駐屯していた秋田藩士は浮腫病にはかからなかった。アイヌの食習慣にならって、ハマナスの花や実をお茶にして飲んでいたことが幸いしたらしい。ハマナス茶にはビタミンCが多く含まれていたのだ。
悲惨な結果となった宗谷派兵は1821年にいったん打ち切られた。しかし、1855年再び幕府から命じられ、東北から多くの藩士が派遣されることとなった。さすがにこの時代になると、クワエヒル(ストーブの原型)が作られたり、毛布が使用されるなど、越冬対策が練られるようになる。
浮腫病予防薬として飲用された珈琲
特筆すべきことは、ここで珈琲豆が支給されたということ。興味深いのは箱館開港と珈琲との関係である。
北方の防衛のために派遣された藩士だが、すでにこのとき箱館は、アメリカの求めに応じて下田と共に開港していた。実際、1854年にはペリー艦隊が箱館に入港。そして、翌1855年にはイギリス、ロシア、オランダと次々に和親条約が締結され、箱館は横浜、長崎と共に国際貿易港となっていく。津軽、会津藩士に支給された珈琲豆もこのようにして陸揚げされた輸入品の一部だったと考えられる。
珈琲は浮腫病に対して薬効がある。どのようにして発見されたのかはよくわからないが、蘭学医の廣川獬(かい)は1803年、珈琲の薬効について、著書「蘭療法」の中に記している。多数の津軽、会津藩士が犠牲になる前から薬効は知られていたのだ。残念ながら、その知識が活かされたのは1855年頃(56年とも57年ともいわれる)のこと。悲惨に終わった前回の派兵を教訓に、浮腫病予防薬として和蘭珈琲豆が藩士たちに支給されることになったのである。
箱館奉行の通達には薬効と共に、珈琲の淹れ方、飲み方まで記されていた。「和蘭珈琲豆、寒気をふせぎ湿邪を払う。黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き二さじ程を麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き冷めたようならよく温め、砂糖を入れて用いるべし」
今でいえば、さしずめネルドリップに近い淹れ方と言える。使われたのが麻袋ということだから、おそらく珈琲かすがずいぶん混じっていたに違いない。
肝心の効き目はどうだったのか? 驚くべきことに、珈琲を飲んだ藩士たちはひとりも浮腫病にかかることはなかったという。
珈琲豆自体には、ビタミンCは含まれていない。珈琲に含まれる水溶性ビタミンB複合体のひとつであるニコチン酸が作用したとも考えられるが、ただ、それだけではビタミンC不足を補うことにはならない。珈琲に含まれるフェルラ酸(植物の細胞壁などに存在する有機化合物)がビタミンCの作用を増強する効果があるという説もある。正確なところはまだ謎が多いと考えるべきだろう。
「北海道」命名の前から始まる珈琲の歴史
現在、宗谷公園には津軽藩兵詰合(つめあい)の記念碑が立っている。津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となって建立した石碑である。珈琲を飲むことができず、浮腫病によって亡くなっていった藩士たちがいたことを今に伝えている。と同時に、珈琲豆をかたどった石碑は、日本で最初に庶民が珈琲を飲んだ地であることを示している。
北方の警備にあたったのは藩士だけではない。農民や漁師など、一般庶民も多く含まれていた。特別な地位にあった一部の人や大黒屋光太夫ら国外に漂流した人を除けば、稚内は日本で最初に一般人が珈琲を飲んだ場所と言えるのだ。
開港によって箱館に荷揚げされた珈琲豆が稚内まで運ばれ、津軽、会津藩士たちの多くの命を救った。日本の珈琲史において、輝かしい1ページを刻んだと言っても良いのではなかろうか。
弘前市では「藩士の珈琲」として当時の珈琲が再現され、一部喫茶店のメニューに採用されている。函館でも同じように、「幕末珈琲」を味わうイベントが時折開催されている。参加者は当時の藩士のようにすり鉢を使って豆を砕き、麻袋に見立てたティーバッグで珈琲を抽出。砂糖を入れて「幕末珈琲」を体験することができる(火を使用する焙煎の工程は省略されている)。珈琲と共にあった先人たちの生活を追体験しながら、一杯の珈琲に思いを馳せるのも格別だろう。
稚内で珈琲が薬として飲用されてから160年以上たつ。北海道と命名される以前から、珈琲の歴史が始まっていたのだ。だが、この事実を知る人は多いとは言えない。ちなみに、稚内では2月、「わっかない珈琲フェスティバル」が開催されている。宗谷公園の記念碑と合わせて、訪ねてみるのも良いだろう。
北海道は珈琲文化の先進地となるか?
北海道は人口密度が低いためか、他の都府県に比べ喫茶店の数が多いわけではない。ただ、珈琲文化は寒いところほど発達するという説がある。実際、珈琲をよく飲む国として北欧諸国が上位を連ねる。一人あたり年間1300杯。1日3、4杯飲んでいることになる。日本人は年間300杯ちょっと。ただ、どうなのだろう? 僕のまわりに珈琲好きが多いからかもしれないが、北海道民はもっと珈琲を飲んでいるような気がする。
冷涼な気候の北海道は、珈琲生豆の保存に適している。そのためか、自家焙煎に力を入れている喫茶店が道内には多い。また、自家焙煎というわけにはいかなくても、一般の人の中には本格的な抽出法を身につけ、珈琲生活を楽しんでいる人が少なくない。
大都市のように、歩き疲れたからひと休みする……といった理由で喫茶店に入る人はたぶん少ないだろう。「プロの淹れた特別な珈琲を味わう」ことが目的という人が多いのではないか? また、近所においしい珈琲が飲める店がない場合は、自宅で珈琲を淹れることとなる。北海道では案外、地方に住んでいる人のほうが珈琲の味に詳しかったり、淹れ方が凝っていたりする。
僕の主観が相当混じっているとは思うが、このようにして北海道の珈琲文化は高まっていくことになるのだろう。
北海道珈琲史
5000年以上前 コーヒーノキの原産地はエチオピアと考えられる
13世紀 豆を煎って煮出すようになる
15世紀 イエメンでコーヒーノキ栽培が始まり、「カフワ」が広まる
16世紀〜17世紀ヨーロッパに珈琲が伝わる
1645年 イタリア・ベネチアにコーヒーハウスが開業
1650年 イギリス・オックスフォードにコーヒーハウスが開業
1699年 オランダがジャワ島にコーヒーノキを持ち込む
1797年 長崎の井出要右衛門が太宰府天満宮に珈琲と砂糖を奉納
1803年 廣川獬が著書『蘭療法』の中で珈琲の薬効に言及
1804年 文人の大田南畝が珈琲を飲んだ体験を記録
1854年 ペリー艦隊が箱館に寄港
1855年 箱館は下田と共に避難港として開港
1858年 コーヒー豆が正式に輸入されるようになる
1859年 箱館は横浜、長崎と共に国際貿易港として開港
1869年 蝦夷地が「北海道」と命名される(松浦武四郎の提案は「北加伊道」)
1878年 小笠原でコーヒーノキの栽培が試みられる
1807年 北方警備のため宗谷に派遣された津軽藩士の多くが浮腫病により命を落とす
1855年 宗谷に派遣された津軽、会津藩士らに浮腫病予防として和欄珈琲が支給される
1992年 津軽藩士の故郷、弘前市の有志が中心となり、宗谷公園に「津軽藩兵詰合」の記念碑が建立される
参考文献
- 「珈琲の世界史」旦部幸博(講談社現代新書)
- 「珈琲一杯の薬理学」岡希太郎(医薬経済社)
- 「稚内珈琲物語」(稚内観光情報)http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/gaiyo_rekishi/coffee.html
- 「藩士の珈琲~日本の庶民初の珈琲~」(まるごと青森)http://www.marugotoaomori.jp/blog/2010/01/8744.html
- 「箱館奉行所公式ウェブサイト」 https://www.hakodate-bugyosho.jp