開拓農家として鹿追に入植し、農作業の傍ら、十勝の大地に根ざし作品を生み出した画家・神田日勝。その画業を紹介するのが、鹿追町にある神田日勝記念美術館。学芸員の川岸真由子さんの話から分かってきたのは、「農民画家」と括られることの多い神田日勝が持つ、知られざる表現の世界と、美術館において画家や作品の展示に対して学芸員が果たす”役割”の重要性だった。(取材時期/2018年5月)
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神田日勝記念美術館
住所 鹿追町東町3丁目2
電話番号 0156-66-1555
開館時間 10:00~17:00
休館日 月曜日
URL http://kandanissho.com/
神田日勝の一般的イメージと実際の画業との差
最近めっきり回数が減ったが、何時間もかけて美術館へ足を運ぶことがある。イベントやスポーツ観戦のようなワクワク感を感じることもあるが、たいていの場合、それらとは違った心持ちで会場へ向かう。何か「今の自分に必要なものがそこにあるのではないか?」という期待感。僕の場合は、そうした理由から美術館を目指すことが多い。
美術館ではおおむね誰もが静かに作品を鑑賞している。視線は作品に注がれている。正確に言えば、作品そのものであると同時に、作品を通じて自分自身を観ようとしているのではないか? ひとつの作品の前でしばらくの間、静かに作品を鑑賞していると、いつの間にか自分と対話していることがある。
自分の知らない何かに出合うためにやってきたはずなのに、出合ったのは自分自身だった…。そんな体験をすることも少なくないのだ。
神田日勝記念美術館で学芸員を務める川岸真由子さんを知ったのは、帯広ロータリークラブでの講演だった。「神田日勝 創作の秘密」という演題で、これまで僕が知らなかった日勝の画業が語られていた。
神田日勝とは、鹿追町で農民画家として頭角を現すも、32歳という若さでこの世を去った天才画家。独学で画家となり、「馬(絶筆・未完)」(1970年)を遺した作家というイメージがあまりに強い。けれども、川岸さんの研究によると、同時代の美術の動向に強い関心を持ち、他の作家からの影響も見られるという。さらには、新聞や雑誌の写真図版を切り抜き、それらの図様が作品に取り入れられている。
農民画家であったため、実体験に基づく素朴な作風という誤解が日勝にはつきまとう。だが、自身の作風を確立するために研究を重ね、情熱を注ぎ込んでいたことが川岸さんの話から伝わってきた。
企画や展示で大きな役割を果たす学芸員
川岸さんは金沢市出身。北海道大学文学部へ進学し、芸術学を専攻した。修士課程の途中で金沢21世紀美術館の臨時学芸員に。育児休暇中の学芸員に代わり1年間だけ大学を休学し勤務する予定だったが、1年後に別な学芸員が産休に入ったため、勤務は2年に延長することとなった。大学に戻り修了したのは2015年3月。4月からは神田日勝記念美術館の学芸員として勤務している。
そもそも、学芸員とはどんな仕事なのだろう?
美術館には大きく4つの仕事がある。「作品の収集保存」「企画展示」「教育普及」「調査研究」の4つ。学芸員はこれらの専門的業務を扱うための国家資格を有する人をいう。神田日勝記念美術館では学芸員は川岸さんただひとりだ。
そもそもなぜ川岸さんは学芸員になろうと思ったのか?
「金沢21世紀美術館での2年間が大きかったですね。美術館が『冬の時代』と言われる中、ここは地方館にも関わらず、当時年間150万人を動員するという驚異的な実績を残しました。現代アートに特化し、自主企画のみでまわしていました。現場の仕事経験を積むうちに、学芸員という仕事が自分にとって現実的にイメージできるものとなっていったのです」。
学芸員の仕事は誰でも同じというわけではない。作品の配置やライティングなどにその人の作品解釈やセンスが現れるという。現代アート専門の金沢21世紀美術館では、さまざまなメディア(媒体)の作品を扱うことになる。見せ方によって作品が格段によく見える。そんな現場を川岸さんは目の当たりにしてきた。
「作家と折り合いをつけながらレイアウトを決めていくというのも重要な仕事です。作家まかせは楽ではあるのですが、意思を尊重するのと言いなりになるのは違うので、お互いにより良い方向を探っていく。コミュニケーション力が大事な仕事だと思います」。 こうした金沢での経験は、神田日勝記念美術館の仕事にも生かされていると川岸さんは言う。ライティングという点では、文化財保護の観点から作品に当てる照度は決められている。しかし、さまざまな企画展を形にし、成功へと導くために川岸さんが果たす役割は大きい。
なぜ感動したのか?その理由を解明する
川岸さんが一番やり甲斐を感じるのは、やはり神田日勝の作品研究なのだそうだ。資料の調査から見えてくるものがあり、「新しい神田日勝像がどんどん構築されていくようだ」と川岸さんは言う。
資料の中心となるのは、30年にわたって日勝の資料を収集してきた菅訓章(すがのりあき)氏(前館長)のもの。そして、日勝の遺族から提供された資料。これらを横断的に見ていくと、思わぬつながりが発見されていくのだという。
講演の中ではパワーポイントの資料と共にいくつもの新事実が明らかにされていた。雑誌の切り抜きや新聞紙面がそのまま描かれている絵は、多くの人が知るところだが、なかなか気づかないような「発見」も少なくない。
僕が面白いと思ったのは「壁と顔」(1968年)という作品に描かれている木目。これは実際に板の木目を見て描いたものではなく、雑誌に写っている写真を参考にしたもの。日勝のアトリエに貼られていた切り抜きが元になっているのだという。こうした発見を一つひとつつなぎ合わせていくことで、これまでにはなかった新しい神田日勝像が形成されていくことになるのかもしれない。
作品鑑賞とはどういうことか? 僕はときどきそのようなことを考える。
鑑賞するのに難しい理論、理屈は不要。確かにそう思うのだが、自分がなぜいいと思ったのか、その理由が何なのか知りたいという欲求もあるはずだ。川岸さんも僕と同じようなことを考えていた。
「作品を見て最初はうっとりしたり、感動を覚える。いわゆる芸術体験をすることになると思います。その後には『なぜ?』という疑問が湧いてきます。なぜ心に響いたのか。作品と自分とのつながりは何か。自分の過去の体験や今置かれている状況とどのように関係しているのか。そうした疑問に対して理屈をつけて、自分が納得したいのだと思います」。
こうした分析的な鑑賞の仕方をするからかもしれないが、川岸さんは決して作家を人物崇拝することはないという。作家の生き様に惹かれることはあっても、あくまでも重要なのは作品のほう。それだけ純粋に作品を鑑賞したいということに他ならない。
これは、美術、文学、写真、映画…あらゆるジャンルに当てはまることだと思う。まずは「感動」が最初にやってくる。理性を使った分析は芸術体験の後ということになる。分析を通じて、一部は解明され、言葉に置き換えられるかもしれない。けれども、理解不能な部分、理屈を超えた驚きといったものが残される。
美術館へ足を運び作品を鑑賞する愉しみ。それは芸術体験と分析だけでは終わらず、その後長く自分の頭の中に留まり続ける「もやもやとした謎」にあるのではなかろうか。
作品に力があるのは、「やむにやまれぬ理由で描く」から
川岸さんに最も気になる作品を挙げてもらったら、「馬(絶筆・未完)」と「死馬」(1965年、北海道立近代美術館蔵)を挙げてくれた。前者は日勝を象徴するあまりに有名な作品。後者は川岸さんが熱心に研究しているという作品だ。下絵がデッサン帳に26ページにわたって描かれているとのこと。研究意欲をかき立てる作品と言えそうだ。
神田日勝以外の作家では、ルネ・マグリットの「光の帝国」と長谷川等伯(とうはく)の「松林図屏風」が挙げられた。「光の帝国」はシュルレアリスムの作品のひとつ。川岸さんはずっと見たいと思い、ベルギーを訪ね、ようやく見ることができたという。一方、「松林図屏風」を描いた長谷川等伯は、桃山時代、石川県七尾出身の画家。同郷の川岸さんには「この世界、知っている」と感じるそうだ。「海風の湿気が脳内で再生される」と言い、折に触れ見たくなる作品なのだという。
「芸術作品は片手間や趣味から生まれたものではない」と川岸さんは主張する。
「やむにやまれぬ事情や社会の要請があって画家は絵を描く。絵がないと、この人は生きられなかったのではないか?神田日勝の作品を見るとそんな思いを強くしますね」。
神田日勝の絶筆「馬」を見て感動する人が多いのは、「生きるとはどういうことか」作品鑑賞者が真正面から向き合うことになるからではなかろうか。それが見る人の琴線に触れる。川岸さんの言葉を借りれば、「この絵は自分のために今ここに存在している、と思わせるくらい作品に力がある」。「馬」に限らず、日勝の作品からはそんな生命力のようなものが伝わってくる。
川岸さんは学芸員としての理性的な視点から、次のようなことも語っていた。「神田日勝の没後からもうすぐ半世紀。時間の経過と共に、作家の血脈、地脈、人脈はそげ落ちていくものですが、今はまだ余熱のようなものが残っています。もともと住民運動でできた美術館ですし、遺族の協力も大きい。画家として評価が定まるのはここからですね。神田日勝という画家がもっと注目を集めるよう活動していきたいと思います」。
美術館の高い天井と不思議な仕掛け
神田日勝記念美術館は今年、開館25周年目にあたる。地元、鹿追町の有志により建設運動が進められ、1993年、鹿追町立神田日勝記念館として開館(2006年、現在の館名に改称)。
神田日勝の作品を収めるという明確な目的を持つ美術館であるため、建物にも大きな特徴がある。外観もさることながら、館内に入ると高い天井が目に入る。中世のロマネスク建築のようでもある。神田日勝の作品は100号を超える大作が多い。高い天井が作品を展示する上で不可欠な条件のように思われる。
展示室左手には広い階段がある。上るとそこにも作品、デッサンが展示されている。作品と共に目を引くのは、日勝のアトリエを再現したコーナー。絵の具箱を兼ねた机、本立て、雑誌や新聞の切り抜き、書きかけの作品などが興味深い。
階段を降りようとすると、「そこから奥に展示してある『馬』を見てください」と川岸さんが言う。階段のやや左寄りから降りると、未完の「馬」の左半分だけが見え、あたかも完成作であるかのような錯覚にとらわれる。半分隠れていると、残りの右半分を脳が勝手にイメージしてしまう。僕は一瞬、「馬」の全身を見たような気がした。この美術館にはそんな不思議な仕掛けが用意されていた。
2019年には日勝の50回忌、そして2020年には没後50年と鹿追町100周年を迎える。美術館としても川岸さんとしても、これからの2年間はもっとも力の入る期間と言えそうだ。
2020年には東京ステーションギャラリーと道立近代美術館での神田日勝展開催が控えている。作品がどのように展示されるか、今から楽しみだ。
北海道の次の150年はアートの果たす役割が大きい
北海道からは実にさまざまな芸術家や作家が誕生している。全国、世界で活躍中の人もいれば、地域の中で芸術・文化の発展に貢献している人も少なくない。
僕が今思うのは、今こそアートを中心とする表現活動の活性化が求められるのではないかということ。北海道命名から150年。地域の文化のありようを見直す段階に来ているように思われる。
生きていくのに精一杯だったのが開拓期の北海道だとすれば、次にやって来たのは、ひたすら経済的豊かさを目指す時代だった。
今は多くの人が経済的豊かさよりも精神的豊かさを求めている。物質的に十分満たされているわけではないだろうが、それでも「心の豊かさ」は物質的豊かさに勝るものと考えるようになってきた。
心の豊かさにもさまざまな形があるだろう。そのひとつとして、僕はアートに親しんだり、作品と向き合うことで自分と対峙する時間を過ごすことがあって良いのではないかと考えている。
川岸さんが指摘するように、芸術は「趣味的なもの」といった誤解がまだ根強く存在する。
川岸さんの出身地である金沢は、文化、芸術に対して理解のある歴史、風土を持つ場所だという。だからこそ、伝統とは対極にある現代アートの美術館が年間276万人(2017年度)も集める人気スポットとなったのだろう。
北海道の今後の150年はアートをはじめとする文化的環境を整備する期間なのではなかろうか?
そのためには、作家を育てたり、施設をつくることも重要だろう。しかし、それ以前に「アートに親しむ人を増やす」とか「鑑賞の仕方や理解を深める手助けをする」といった活動が欠かせない。川岸さんのような学芸員や地域の美術館の活動に期待するとともに、メディアの果たす役割も重要であるに違いない。
この記事の掲載号
スロウ55号「おいしい魚の向こう側」
海の中で起こり始めているさまざまな変化に目を向けながらも、郷土料理や漁師の取り組みなど、純粋な「魚っておいしい」を探して。