炭鉱の歴史と共に消えた、幻のなんこ鍋を求めて

昭和初期、炭鉱の町として栄えた歌志内市。そこで炭鉱マンのエネルギー源として親しまれてきたのが、「なんこ鍋」だ。馬の腸でつくるこの郷土料理は、炭鉱閉山とともに作る人・食べる人が減り、今ではその存在を知る人がごくわずかとなっています。そんな中、なんこ鍋を今でも作り続けている元炭鉱マンを訪ねました。(取材時期/2013年10月)

Shop Data

ナイトスナック現代
住所 歌志内市本町184  
電話番号 0125-42-2686(安田)
※現在店舗は閉店していますが、事前連絡で注文対応は可能です。

生死の狭間で働き続けた炭鉱夫たち。

かつて、北海道には160を超える炭鉱があった。多くが歌志内、赤平、芦別、美唄、夕張など、北海道中央部の都市に集中し、大小複数の炭鉱が競い合い、大きな村や町が出来るほどたくさんの人々が住み、賑わいを見せていたと言う。昭和30年代の後半、国の大規模なエネルギー転換の政策によって、炭鉱は次々と閉山を余儀なくされ、仕事を、住む場所を、ふるさとの大地をなくした人は、数知れない。

四方を山に囲まれた小さなまち、歌志内市もそのひとつだ。最近では、日本一人口の少ない市として、テレビ等で紹介されることもあると言うが、1995年に閉山を迎えるまで、かつては今の10倍以上、4万6千人がこの場所で暮らしていた。「石炭がなけりゃ、人が住むところじゃなかったんだよ」と教えてくれたのは、安田清さん。炭鉱閉山を受けて多くの人々が歌志内を去っていく中、このまちに残った一人である。

安田清さん。18歳から22歳までを炭鉱マンとして働く。その後30歳の時に「ナイトスナック現代」を開店。40年続けた店は、残念ながら2011年に閉めてしまったが、厨房も内装もそのまま残してあるそう。

現在72歳(取材当時)の安田さんは元炭鉱マン。高校を卒業した1959年から4年間を炭鉱で過ごしている。「親父が炭鉱マンだったからね。俺が高校を卒業するのと、親父が55歳で定年退職するのが一緒で、交代採用だったんだ」。他にやりたい仕事もあったそうだが、炭鉱マンの長男に生まれたからには他の選択肢があるはずもなく、問答無用でそのレールに乗るしかなかった。現実には、仕事と住む場所が保障されている生活を送るには、一家の担い手となる長男の炭鉱就職は必至だったというわけだ。

市街地を囲む山の斜面には、当時炭鉱関連で働く人々の住む6軒長屋が所狭しと並び、安田さんはちょうど現在の神威岳スキー場周辺に住んでいたそうだ。「ここも、あそこも、み〜んな家が建ってたんだ」。安田さんが指差す先には、廃屋はおろか住宅があった痕跡すらきれいさっぱりとなく、ただただ草花がひっそりと咲いているだけだった。

炭鉱での仕事は、8時間労働の3交代制が基本だ。一番方が朝7時から、二番方が15時から、そして三番方が23時からの24時間稼動。真っ暗な地中で体を酷使する過酷な労働。時には、落盤事故など命すら危険な状況になることもあった。それでも、彼らを炭鉱へと向かわせたもの。それは、自分たちが日本の近代化に貢献しているという誇り、ただひとつだけだったと言っても過言ではないだろう。

明治維新以後、諸外国に追いつこうと急速に発展していく中で必要とされた石炭というエネルギーは、最盛期の昭和20年頃には、火力、電力、鉄道輸送などの燃料としてはもちろん、ガス、製鉄、肥料、合成繊維などの材料として、日本のほぼすべてのエネルギーや素材をまかなっていた。自分たちがいなければ、日本の未来もない。それほどの気概と覚悟を持って働く男たちが日本中にいたのである。

作業は素手で行うため手の皮は分厚く、粉塵が眼の周りの粘膜に刺さり込んで、アイラインを引いたように黒く染まり、身体は頑丈な重たい鉄製の道具を使うおかげでついた、たくましい筋肉に覆われている。それが、日本の一時代を担った、名もなき英雄達の姿であった。

馬の腸でつくるなんこ鍋は、炭鉱マンのエネルギー源

炭鉱マンたちの屈強な精神と肉体を支えた食べ物のひとつが、なんこ鍋である。味噌をベースにしたスープに、具材として馬の腸と野菜を煮込んだものを入れる。「味噌味っていうのは、みんな同じだけどさ。具材は家庭によって違うんだ。馬の腸は独特の匂いがあるからね。外歩いてても、匂いで『あ、あそこんちは今日なんこだな』って、わかったよ」。ちなみに安田家ではニラ、玉ねぎ、仕上げに生卵を乗せるシンプルなスタイルだ。毎年5月に行われていたという山の神の祭りにも欠かせない食べ物で、男たちが酒のつまみに食べていた姿を、安田さんは今も鮮明に覚えていると言う。

全体をよく混ぜ合わせ、温かいうちに頂く。

このなんこ鍋。発祥は秋田県で、明治時代、石炭掘りの技術と共に北海道に渡ってきたものらしい。「なんこ」という名前は、家族のように一緒に暮らしている馬を食べることに抵抗があったため、馬という言葉は使わずに、十二支の午の刻(つまり正午)が示す太陽の向き、「南向(なんこう)」から名づけられた。江戸から明治にかけての炭鉱内には、石炭の運搬役として数え切れないほどの馬がいたと言う。

馬は炭鉱マンにとって身近な存在であり、栄養的にも優れていたことが、炭鉱の郷土料理として広まった要因と考えられている。炭鉱と共にあった郷土料理は、その閉山と共に忘れ去られようとしていた。

「自分が食べてた味だから、無くしたくなくてね。馬の腸は下処理をするのが大変で、作る人自体がいなくなっちゃったんだな」。安田さんが1971年に開店した「ナイトスナック現代」では、お酒のメニューと並んで、なんこ鍋も提供していた。その下処理の方法は企業秘密らしいのだが、仕込みは客がいなくなった閉店後でなければ出来ないほど、匂いが強烈なのだそうだ。

大きくぶつ切りされた馬の腸は噛み応えがよく、甘しょっぱい味噌との相性がいい。さらには、ニラや玉ねぎなどの野菜が溶け込み、酒のツマミやご飯のお供にしたい味だ。七味を少し振りかけて食べると、味噌の味が一層深まり、身体が芯から温まる。懐かしそうに食べてくれる人、新鮮な気持ちで食べてくれる人…。スナックを閉店した今でも、電話で予約があれば対応しているのだそうだ。

スナックの赤いビロードのソファーに座りながら食べるなんこ鍋。なんだかシュールな雰囲気なのだが、安田さんから聞く歌志内の昔話も興味深い。「石炭が全てだったからね。まさかなくなるなんて、当時は誰も考えたことなかったよね」。安田さん曰く、100パーセント以上を炭鉱一本に注いできただけに、農業や工業など、他産業が発展する余地などなかった。閉山後20年近くの年月が過ぎた今、炭鉱の歴史そのものを語り継ぐ人もだんだんと減っている。

安田さんは、炭鉱の語り部として、また、なんこ鍋の料理人としてふるさとの味を守り続けている。「ここでずっと暮らしてきたからな。住んでるところが一番だね」。そう言って、元炭鉱マンは豪快に笑った。

この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.34
「時を越えて、香る味噌」

各家庭、各地域それぞれに個性を持つ基礎調味料、味噌。老舗味噌蔵や郷土料理を通し、北海道と味噌の歴史をひも解く。

この記事を書いた人

鎌田暁子

鎌田暁子

十勝出身で、現在は農家のヨメ。週末はトラクターを運転しています。pH8以上の温泉(ソムリエ資格あり)、挽き肉(究極の餃子とハンバーグを探求中)、ポストカード好き。