あの店にも、この店にも。駒ヶ岳のふもとのパン屋やチーズ屋、カフェの片隅でちょこんと座っている白い小さなヤギの置きもの。そのふるさとは、七飯町の上軍川地区にある工房塒というところ。生みの親である松浦さんは、自身のことを陶芸家ではなく、「陶芸をやる漁師で、ヤギ飼い」だと話します。「寄り道ばかり」と困ったように笑いながら教えてくれたのは、マレーシアへの旅、陶芸との出合い。そして、「陶芸との向かい方に決着を付ける」ためのこれからの話でした。
Shop Data
工房 塒【ねぐら】
住所 七飯町上軍川1055
電話番号 090-4874-7902
※見学の際は、前日までに電話で連絡を。
松浦さん 日中は漁に出ていることが多い
うっすら雪の積もる山のふもとの工房を訪ねて
誰かが生み出すものには少なからず、その人の心持ちや暮らしが表れるものだと思う。言葉でも、食べものでも、焼きものでも、どんなものでも。
工房 塒の松浦喜英さんが作る小さな陶のヤギは、のびやかで、楽しげで、どこか自由な感じがした。小さくてさりげないのに、訪れる店の棚や窓辺の片隅で見かける度、どうしてか心惹かれた。そのふるさとを、訪ねてみようと思った。
「ちょうど窯入れが落ち着く頃なので、工房で待っています」。約束の日、工房から姿が見えるはずの駒ヶ岳は、すっぽりと雲に包まれていた。七飯町上軍川(かみいくさがわ)地区。松浦さんはここで家族と、ヤギと、鶏と、それから犬と一緒に暮らしている。ギャラリーを兼ねた住宅の周りには、自分たちが食べる野菜を育てる畑と、手づくりの窯、それから現役の五右衛門風呂がある。
ギャラリー兼自宅に上がらせてもらい、「そこが一番あったかいから」と、松浦さんが勧めてくれた場所に座る。ストーブの中で、パチパチ、ぼうぼうと薪が燃えていた。その音と熱を背中に受けながら、松浦さんの話に耳を傾けた。
四国で自然農法を学び、陶芸と出合った頃のこと、この場所で暮らし始めた頃のこと、漁に出ながら、陶芸を続けている今のこと。松浦さんは話の途中で何度も、「寄り道ばかりで」と、困ったように笑っていた。
農業と、陶芸に出合うまで
函館市で生まれ育った松浦さん。高校卒業後は、新潟県の大学へ進学した。
「学生の頃、マレーシアの島で、3週間ほど現地の人たちと生活したことがあったんです」狩りをしながら、自給自足で暮らす人々との生活。「アウトドアも好きだったし、自分が一番丈夫な靴を履いていた。でも、自分が一番何もできなかった」。
島での生活を終え、松浦さんは、日本へ帰国。「たった3週間だったけど、帰ってきたら、今まで普通に暮らしていた場所が全然違って見えたんです」。家へ向かう電車に揺られて、松浦さんは自分のこれからを考えた。卒業後の進路について。もっと大きく言えば、これからの生き方について。「大切なものは、何だろう」。
そんな時、『わら一本の革命』という本に出合う。「薪割りのアルバイトをしていた焼きもの屋で偶然、貸してもらいました」。耕さず、農薬も肥料も使わずに稲を育てる、自然農法の本だった。松浦さんの心に、ピンとくるものがあった。
「農業とか、自給自足がしたかったというよりは、『自然の力』を知りたかった。その中から、何か見つけられる気がしたんです。自然の中で逞しく暮らしていたマレーシアの人たちの、キラキラした目が忘れられなくて」。自然農法を学ぶ先に、生きていく上でのヒントを求めて。松浦さんは四国へ渡り、本の著者の息子である福岡雅人さんから、米作りを教わった。
愛媛県で2年間、研修生として米作りを学んだ。「自分で作ったお米が収穫できた時、アルバイトしていた焼きもの屋へお米を送ったら、すぐにお茶碗が届いて。自分で作ったお米を、そのお茶碗によそって食べたんです。それが、なんだかすごくうれしくて、『こういうの、いいなぁ』って」。松浦さんの顔がほころぶ。
その後、砥部焼(とべやき)の陶芸家と知り合い、教えてもらったり、試してみたりしながら、自分でも陶芸を始めた。農業と出合い、陶芸と出合い、松浦さんの〝これから〟は緩やかに描かれていった。作物を育てながら、その傍(かたわ)らで焼きものを作る。そうやって、「いくつかの要素を組み合わせて暮らしていけたら」。
高知県から、故郷の北海道へ
研修を終えた後は、高知県の小さな集落で米や野菜を育て、陶芸を続けた。愛媛県で出会った朋子さんと結婚し、2人の間には子どもが生まれた。
「集落の人たちが、地域ならではの結婚式を挙げてくれたり、本当に温かくて、いい場所でした。でもどうしてか、ずーっと、北海道に帰らなくちゃいけないって気持ちがあって」。心を決めて、家族と共に北海道へ移り住んだのは、29歳の頃だった。「子どもの頃から大好きだった、駒ヶ岳の見える場所に住みたい」。北海道へ戻り、そんな思いで土地を探した。やがて現在暮らしている土地の持ち主と巡り合い、馬小屋と住宅を貸してもらうことになる。
「北海道で生まれ育ったのに、いざ帰ってきて暮らしてみたら、想像以上に厳しかった」。冬が長いから、農業ができる期間は、四国に比べてぐっと短くなる。寒さは厳しく、粘土は凍ってしまうし、焼きもの用のレンガは、四国よりも、ずっと価格が高かった。
陶芸を続けることはなかなか厳しく、まずは生活のために働かなくてはいけなかった。幾つもの仕事をした中で、松浦さんの性に合っていたのは、夏に蓴菜(じゅんさい)沼に出て、蓴菜を採る仕事だった。蓴菜が採れない春と秋は、大沼でスジエビを獲ったり、湖が氷る冬はワカサギ釣り場で働くようになった。
自宅前の畑は朋子さんが世話をして、松浦さんは年中湖へ向かう。その日々の中で子どもが2人生まれ、松浦家は5人家族に。さらに、ヤギや鶏、犬も仲間に加わった。畑では家族が食べる分の野菜が実り始め、駒ヶ岳のふもとの暮らしは、少しずつ、少しずつ、彩られていった。
工房塒の始まりとこれから
工房 塒としての一歩を踏み出したのは、この場所で暮らし始めて4年ほど経った2010年頃。やっと小さな窯が完成した。「星野道夫さんの本を読んでいた時、文章の中に『塒』という言葉を見つけて。『土の時間』って書くでしょう。この文字みたいに、地に足をつけて、生きていきたいと思ったんです」。
2代目となった窯の中を覗かせてもらう。大小さまざまの焼きものが、窯の温度が下がるのを待っている。500個ほど焼くのに、5日間薪をくべ続け、窯に蓋をした後、また5日間かけて温度を下げていくそうだ。
「今回の焼きもので、『工房 塒の「ね」展』をすることにしたんです」。これまで工房に関わってくれた人たちへ手紙を出し、焼きものを並べて待つ。「最初の一歩に戻るための展覧会」だ。
寄り道は、結ぶこと?
「たくさん寄り道して生きてきたから、今までやってきたことをまとめたい。いらないものは減らして、大切なもの、必要なものは何なのか知りたい。きっと時間はかかるけど、塒の『ぐ』展と、『ら』展をやって。『ら』に着いた時、陶芸との向き合い方に、一つの決着を付けたい」。
松浦さんにとって陶芸は、生活における要素の一つ。自身を陶芸家ではなく、「陶芸をやる漁師で、ヤギ飼い」だと言っている。楽しむだけの趣味ではない。続けることも容易ではなかった。それでも生業だとは言い切れない。だから一文字ずつ確かめていきたいのだと、朗らかに笑う。
「今は、陶芸と蓴菜が重なる時が一番うれしい」。たとえば、こんなことだ。蓴菜を卸している飲食店で、「こういう器があったらいいんだけど」と聞いて、それを作ってみる。店の人は、理想の器が手に入り、松浦さんは食器という観点での、新しい知識を身に付ける。そうやって、自分と、自分が手がけたモノと、相手が、つながっていくことだ。
「寄り道ばかりで」と、松浦さんは繰り返した。最後まで、困ったように。帰り道、雲の晴れ間に駒ヶ岳の姿を眺めながら、松浦さんの言葉について考えていた。そして思った。寄り道とは結ぶことかもしれない、と。いくつかの大切なものを、結んでいくこと。結びながら歩いて行けば、道はつながる。いつかその道が、どこかに導いてくれる。
それからもう一つ。道がつながっていれば、戻ることができる。だからもしも、〝どこか〟がわからなくなって進めなくなってしまった時は、つないできた道を戻ればいい。そこには、いつかの自分が結んできた大切なものが待っている。戻る道があること。それは、たくさんの寄り道をし、いくつもの点を結んできた人が持っている、特権だ。
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