過去、マイナス41.2度を観測した道内でも特に冬が厳しい地域、幌加内町。真冬は3メートルもの雪が積もることもある豪雪地帯でありながら、深名線の廃線後20年以上にわたって、ほぼ原型のまま残されている木造駅舎があります。その駅の名は、沼牛駅。「どうしてそのままの状態で、長い期間保存することができているのだろう?」。そこには、ある男性が駅舎で過ごした懐かしい日々と、その男性に感化された人々の物語が隠されていました。(取材時期/2019年9月)
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JR沼牛駅
住所 幌加内町下幌加内 ※歴史的建造物のため、内部は通常非公開です。
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ぐっとくる言葉 「幌加内には二度雪が降る」。そばの花が咲く季節と、深い雪が積もる冬があることから、地元にはこんな言葉が伝わっているそう。
坂本勝之さんが過ごした幌加内の記憶
通学路だった。家から沼牛駅まで500メートルほど線路を歩く。さらに駅を通過し2キロほど離れた小学校まで毎朝40分ほどかけて通学していた。
「危ないときは駅長さんが教えてくれたんだ。『今行ったら汽車が来るよ』と言って。通ったらダメとは、絶対言わない」。冬の徒歩通学の過酷さは、駅員も承知の上。今では考えられないが、「気をつけて通りなさい」と、いつも優しく見守ってくれていたという。
沼牛駅を経由して通った、中学を卒業するまでの9年間。朝も夕方も、駅は中に入りきれないほどの客でいっぱいだった。幌加内高校に通う高校生のお兄さんやお姉さん。深川市からやって来た行商人。幌加内の市街地へ買い物に出かける主婦や病院通いの高齢者たち。利用者に、老いも若いも関係ない。道路が発達しておらず、交通手段といえば汽車だった当時、駅は地域の唯一の玄関口だったのだ。
坂本さんが小学生の頃、幌加内町の人口は約1万2千人。当時の主要な産業は林業で、大量の木材が駅を取り囲むように積み上げられていた。幌加内町でとれるレンガの原料となる粘土の搬出も盛んで、沼牛駅からまっすぐ伸びる駅前通りには店が立ち並び、人通りも多かった。駅前の広場では、夏に盆踊りをした。駅舎のゴミ箱の裏を台にしてパッチ(めんこ)をして友だちと毎日遊んだ。隣のレンガ倉庫で開催される町民芝居も楽しみだった。
坂本さんは幼心に、未来に胸をときめかせていたという。「20年、30年先のこの町は、一体どうなっているんだろう!ってね」。
廃線になった沼牛駅の管理を引き受けて。
80年代に入り、減反政策の影響が徐々に幌加内町にも出始めた。離農者が増え、人々はみるみる都会へ出て行き、小さな町の人口は減り続けることになる。「小さい頃はまさかこの駅がこんな風になるなんて、思いもしなかったんだ…」。
目を細めて通りを見つめる坂本さん。誰もいない駅前通に響き渡る、エゾハルゼミの鳴き声が少し寂しい。目を閉じると、坂本さんの記憶の中の風景が、頭の中に呼び起こされる。
坂本さんは中学校を卒業すると、札幌市の通信制の高校に所属しつつ、父親と共に出稼ぎに出た。それからしばらくは沼牛駅から遠ざかり、幌加内へ戻ってからはそば農家として、そば打ち職人として、自らの人生を歩む年月が始まる。
そして1995年9月4日、深名線は利用者数の減少に伴い、ついに廃線の日を迎えることとなった。居ても立ってもいられず、廃線前最後に記念乗車した坂本さん。少年時代の思い出や、3人の娘を駅へと送り迎えした日々のことが、しみじみ思い起こされたという。
廃線後、沼牛駅の所有権はJRから幌加内町役場へと譲渡された。町内会を通じて沼牛駅の貰い手を探しているという話が坂本さんの元へ舞い込んだのは、それからしばらくした後だった。この先続く管理のことを考えると仕方のないことかもしれないが、誰も立候補者はいなかった。「廃線と共に、駅舎まで姿を消すのは寂しい」と、その話を引き受けることにした坂本さん。
しかし、現状のまま建物を保存し続けるのは、言葉で言うよりも大変なことだった。 冬は、駅の屋根と同じ高さまで雪が積もる。ここでの屋根の除雪は、「雪下ろしじゃなくって“雪ハネ”」なのだと坂本さん。雪を下に落とすのではなく、上に跳ね上げるのだ。ひと冬に5、6回の除雪が必要だった。その大変な作業を、たった一人で、20年間続けてきた。「自分が引き受けた駅舎を、雪で潰すようなみっともないことはできない」。その思いが、坂本さんを駅舎の保存へと向かわせていた。
新たな仲間と共に、守り継がれる沼牛駅。
廃線から20年目の2015年。当時を知る者も少なくなりゆく中で、幌加内町に住む飯沼剛史さんと、深名線に思い入れを持つ横山貴志さんが、沼牛駅の存在に着目する。「どうしてこの建物、ずっと残っているんだろう」。所有者を調べると、坂本さんの名前が浮上。直接話をする中で、一人でこの駅舎を守り続けていたことを知った。「坂本さんの行動や思いに共感したのが一番大きな理由」で、飯沼さんらは坂本さんに駅舎の管理を手伝わせてほしいと申し出た。思わず「肩の荷が下りた」と、心底ホッとした自分がいたと、坂本さん。
廃線20年の節目の年にと、沼牛駅でイベントを開催させてもらうことにした飯沼さんたち。窓枠を覆っていたコンパネを外し、中にあった荷物をすべて移動させた。徐々に露わになった駅舎の中は、お世辞にも、「きれい」とは言い難い状態。今にも吹き飛びそうな屋根や、基礎が丸見えになっていた床を修復し、体中埃と煤で真っ黒になりながら床を何度も磨き、なんとか人に見せられる状態に復元させた。
そして2015年7月18日、「おかえり沼牛駅」というイベントを開催。限定の駅弁やグッズを作って販売した。人口約60人の小さな沼牛地区に500人もの人々が集い、期待以上の大賑わいとなった。鉄道ファンも多かったが、かつて駅を利用していた地域の人々も多く集まった。「みんな、口々に『懐かしい』と言っていて…」。坂本さんは、自分が守り続けてきたものが、「他の人にとってこんなにも特別なものだったとは」と驚いたそうだ。大成功に終わったイベント終了後、飯沼さんらは坂本さんに会長になってもらう形で、任意団体おかえり沼牛駅実行委員会を立ち上げた。クラウドファンディングで寄付を募って駅舎を修繕したり、坂本さんがそばを振る舞うイベントなどを毎年企画している。
建物として、「存在があること」。
2009年頃、この町に移り住んだ飯沼さん。右も左もわからないまま仕事に従事する中で、多くの優しい町民に支えられてここまで来られたと言う。「幌加内町が大好きなので、この町の歴史にも興味があるんです」。
坂本さんから昔の話を聞く度に、より一層「この駅舎を守らないといけない」という気持ちが強くなるのだそうだ。「坂本さんの世代と、僕の次の世代をつなぐ架け橋に、自分がなっていきたいなって」。坂本さんの思いを自分が受け継ぐだけではなく、次の世代へとつなげることこそが自分の役割。駅舎と共に過ごした思い出がなくても、この町への愛着と、坂本さんへの共感だけで、飯沼さんの動機は十分だった。
「駅」という施設が持つ特別な役割がある。まず、分け隔てなく誰もが利用していた公共施設だということ。そして、かつて唯一の公共交通機関だった時代の、町の産業や歴史を伝える遺産になるということ。なくなってしまったら、幌加内の歴史の1ページを示す“証拠”が一つなくなってしまうようなものだ。
駅舎“跡地”ではなく、そのままの形で残っているということに大きな価値があると2人は言う。「ここにそのままの状態の駅舎があるから、遠くからわざわざ訪れる人がいる。それはきっと、実物を見たいからなんでしょうね」。
建物として、「存在」が残るということ。だからこそ私たちは、この駅舎の中から通りを眺め、まだ生まれていない時代の景色を頭の中で想像することができる。だからこそ、使い込まれた柱に手を触れたときの、ひんやりとした感触から、駅が見守ってきた日々に思いを馳せることができる。
町史に綴られた文字だけでは、伝わらないものが確かにある。耳を傾けると、賑やかだったあの日々を、坂本さんに守られ続けてきた日々を、そしてこれから始まる新しい物語へのワクワクを、沼牛駅は静かに語りかけてくれる。
2021年8月21日(土)、映像と生配信で幌加内の魅力を届けるオンラインツアーを開催します。配信では、坂本さんも登場!参加者の方には事前に冷凍そばやそばの実をお届けし、おいしい食べ方をお伝えします。
この記事の掲載号
northernstyle スロウ vol.60
「継ぎたいものは、何ですか?」
創刊15周年を迎えたvol60.。歴史的建造物やアイヌ民族の家庭料理など。彼らは何に価値を見出し、どんな思いで「継いで」きたのだろう。