十勝や釧路からオホーツク方面に向かう途中、国道240号線に現れる真っ赤な15棟の建物たち。立体作家の大西重成さんによる、私設美術館です。東京で長らくイラストレーターとして仕事をしていた大西さんこと”シゲチャン”。50歳のときに出身地の津別町にある酪農家の跡地にやって来て、創作し続けています。自分自身と向き合い続けるシゲチャンの世界を訪ねてみました。(取材時期/2014年)
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シゲチャンランド
住所 津別町字相生256
電話番号 090-5222-8580
開館時間 10:00~16:00
休館日 水~金曜 ※11~4月は冬季休館
入館料 700円
シゲチャンとの出会い
シゲチャンに会ったのは、たったの2度です。32 年、11680日生きてきたうちの、たった2日です。たった2日、数時間だけ会った人の人生や哲学を語るのは、なんだかとっても気が引けるのですが、私は私の目に映ったシゲちゃんを、自分なりの言葉で伝えたいと思います。
シゲチャンの本名(どちらが本名かわかりませんが、少なくとも日本の国籍上では)は、大西重成といいます。北海道の中では、けっこう有名人です。シゲチャンに会ったことがなくても、「シゲチャンランド」に行ったことのある人は多いと思います。ランドの中を歩いている、髭を生やした男性を見たことがあれば、その人がシゲチャンです。シゲチャンランドは、道東の津別町相生(あいおい)というところにあります。昔は木材を運ぶ鉄道があって、十勝や釧路と、オホーツク方面を結ぶ中間地点としてにぎわっていたこともあったそうですが、今ではここで暮らす人も少なくなりました。
国道を走っていると、山と山に挟まれた谷のような場所に、急に真っ赤な建物たちが現れます。それもひとつやふたつじゃありません。全部合わせると15棟あります。赤い色に塗られた、サイロや倉庫、電話ボックスみたいな建物が点在していて、初めて目にしたときには「何だここは?」と、100%の人が不思議に思うんじゃないかと思います。怪しい宗教団体か、いかがわしい物を高額で販売しているのか…。そして、次に「こんなものを作っている人は、相当な変わり者だ」と思う。これは私の意見ではありません。シゲチャンから聞いた昔のウワサ話です。とりあえず駐車場に入ってきて、車中からじ〜っと中を見て、次にUターンして帰っていくのだそうです。今から14年前、そんな風にしてシゲチャンランドは始まりました。
最初に勇気を持って入って来たのは、ライダーたちです。彼らは好奇心の塊のような人たちですから、ちょっとばかり奇妙な所のほうがいいのです。そんなチャレンジャーたちがやって来ては興奮して帰っていき、チラシをあちこちの宿で配ってくれたものだから、シゲチャンランドの噂は、旅人やアーティストたちの間から徐々に広まっていきました。
私がその名前をよく聞くようになったのは、今から7、8年前のことでしょうか。雑誌などを見て存在は知っていました。けれど、やっぱり「ちょっと風変わりで、こむずかしいゲージュツ論を語って、世の中を斜めに見ているような人が開いているんだろうな」と思っていました。自分の目で見たこともないのに(横の国道を通り過ぎることはありましたが)、会ったことも、話したことすらないのに、決めつけてかかるのは良くないですね。私がそんな風に勝手に想像していたシゲチャンと、ホンモノのシゲチャンは、まったく違っていました。同じだったのは、髭を生やしていたということくらいです。その点だけはイメージ通りでした。
シゲチャンは、いい意味で「人間らしい人間」でした。ここで言う人間らしいとは、言葉と知恵を持っていて、ワガママで、欲望に素直だということです。こう考えると、自分も含めて、人間らしい人間には滅多に出会えるものではありません。みんなそこに一枚の薄いベールを纏っています。そればかりか、分厚い壁で塗り固めているような人さえいます。だから、シゲチャンはとても貴重な種類の人間です。シゲチャンは、8月生まれだから太陽が好きだと言っていました。赤い色も好きだと言っていました。ニコニコ笑っていました。そしてとても、楽しそうでした。
シゲチャンランドの誕生
シゲちゃんこと大西重成さんは、1946年に津別町で生まれました。20歳から50歳まで、ずっと東京でイラストレーターとして仕事をしていました。雑誌やポスター、CDのジャケットやCF(コマーシャルフィルム、つまりテレビCMなど)を作っていました。その頃はまだシゲチャンではなくて大西さんで、そして大西さんは、とても突っ張っていました。シゲチャン流に言うと、「頭に走っていた」んだそうです。「○○主義」という言葉を使って理論武装して、相手をどうやり込めようかと考えていたのだそうです。一見攻撃的なように見えますが、それは自分を正当化するための策でした。創作は表現することではなくて、自分を守るためのものだったのです。そう気づいたときは落ち込みました。仕事も少なくなりました。
そんな大西さんにヒントを与えてくれたのは、当時幼稚園生だった息子でした。牛乳パックで作ったロボットを持って、空を飛ばしたり、街を攻撃してみたりして遊ぶ。それはそれは楽しそうでした。何でこんなに楽しそうなんだろう。こいつの作る物を真似してみよう。そうしたら、同じように楽しくなれるのかもしれない。今まで平面の世界で物作りをしていた大西さんが、立体の世界に足を踏み入れるようになったのは、まさにこのときからです。
子どもができたと、奥さんに告げられたとき、大西さんは「血迷って」ネパールに旅に出た過去がありました。自分だってまだ子どもなのに、どうやって育てていくのか。そんなことを思い悩んだのだそうです。しかし、創作に行き詰まった大西さんを助けてくれたのは、ほかでもない息子の存在。子どもは親が育てるのではなくて、親の膠着(こうちゃく)しきった脳を和らげるために、目の前に現れてきてくれたんじゃないか。そう思えるようになったのです。
息を吹き返した大西さんは創作に没頭。40歳から作り始めた立体物は、自宅にも仕事場にもどんどん溜まっていきました。なぜなら、「拾って」きてしまうからです。男は子どもを産めないから、その分、物を収集してしまうのだと言い訳(?)していましたが、本当のところはわかりません。とにかく、大西さんはいつどこであっても、キラリと光る物を見つけると、それが例えスクーターに乗って走っている途中であっても、スクーターを停めて拾ってきてしまうのです。
その多くは、世間から「ごみ」と呼ばれているようなものです。でも、大西さんにとっては違うのです。「気」みたいなものを感じ合っているのだそうです。
作った作品は、天井からぶら下げたり、押し入れに突っ込んであったりで、来客の度に片付けなければならなかったんだそうです。
いよいよ物が溢れてきた頃、外国のある寺院が雑誌に載っているのを見ました。そこは様々な作品を展示して開放している場所で、いくつかの建物があって散策しながら楽しめる美術館のようになっていました。それを見て、頭の中に〝シゲチャンランド”構想がむくむくと湧いてきました。広い土地に建物を見つけて、倉庫に作品を展示すれば一石二鳥。東京でやりたかった仕事はもう充分できたという気持ちもあり、移住を考えるようになりました。東京出身の奥さんのために、暖かい南のほうに移り住むことも考えましたが、バブルが弾けたとはいえ土地の価格はまだまだ高く、要はこの場所が破格の値段だったというわけです。何しろ膨大な数の作品があって、それを収められる、広大な土地や建物が必要だったのです。
1996年。大西さんは50歳で津別町相生の酪農家の跡地にやって来ました。50歳からの20〜30年をどうやって過ごしていくか。そんなことを考えてシゲチャンランドを開設したのは、それから5年後のことです。シゲチャンランドの建物には、すべて人体の機能の名前がついています。いくら増えても付ける名前に困らないように。生き物のように変化していく場所であるように。そして、大西重成さんはシゲチャンになりました。天地創造の神、とまではいきませんが、シゲチャンランドは、シゲチャンの頭や身体の中そのものであり、また、私やあなたの頭や身体の中でもあります。
東京でシゲチャンが向き合ってきたのは、常に「人」でした。競争ばかりで、そこから脱落すれば敗者です。それは刺激的な毎日かもしれません。でも、ここには何もありません。向き合うべきは自然であり、自分自身なのです。自然は5年、10年経っても大きな変化はありません。季節に関係なく、自分の頭の中の風景を変えていかなければ、瞬く間に感性は鈍くなってしまいます。それに、シゲチャンはテレビも新聞もあまり目にしません。本と映画と音楽。それがこの場所でのシゲチャンの3種の神器です。
夏の間はシゲチャンランドを開けて、冬の間に創作する。だから、春になればシゲチャンランドには毎年新しい作品が加わっているのです。
60畳あったアトリエは、いつの間にかまた物で埋まってきました。ビール瓶の蓋やワインの栓、スプレー缶の裏底、貝殻に流木…。買ってくる材料は、ほとんどありません。一見雑多に置いてあるように見えますが、パーツごとに細かく分類され保管されています。ずっと前からある物も、新しく拾ってきた物も、出番が来るのを今か今かと待っているのです。そもそも出番がやってくるのかどうか。それはシゲチャンにすらわかりません。物が勝手に「あいつとくっつきたいな」と呼びかけてくるのだそうです。その瞬間はある日突然やってくるそうです。
レフトハンド&ライトハンドハウスには、縦型の建物を活かした塔がそびえ立っている。
シゲチャンは、神様みたいですが生身の人間です。私たちと同じように、毎年1歳ずつ年を取ります。かつて生まれてきたように、いつかこの世を去るときがやってきます。これもみんな平等です。シゲチャンは、その人生の間に「いろんな自分に会いたい」と言いました。20歳の自分も、50歳の自分も、80歳の自分も、その時々の思想と感性を持って、人にその熱を伝えていきたいんだ、と。シゲチャンランドの赤は、情熱の赤です。いつでも自分と正面から向き合って、一生懸命に生きるシゲチャンの色です。
この記事の掲載号
northernstyle スロウ vol.38「本の形、こころのかたち」
本とは何か?その魅力を多角的に捉える特集。それを読む環境や周囲との人間関係といった、心の交わりの重要性にスポットを当てた。