エゾシカ、エゾリス、キタキツネ、時々ヒグマ。北海道で暮らしていると、峠道でエゾシカが飛び出してこないかドキドキしたり、登山ではヒグマの存在を意識して熊鈴を鳴らしたりと、野生動物の存在を近くに感じる機会が多くあります。知床在住の絵本作家・あかしのぶこさんが描くのは、知床で生きる野生動物の暮らし。「野生動物が大好き。でも、本当は会わずにいるほうがいいかもしれない」というあかしさんの言葉から、人と野生動物の距離について考えました。(取材時期 2021年9月)
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あかしのぶこさん
絵本 福音館書店、知床財団ネットショップでも販売中。
動物が生きていた時間を追うように描く
「森で動物たちに会える時間って、本当に一瞬。食事をしていた痕跡や巣を見つけて、『ここで生きてるんだ』と想像する時間のほうが圧倒的に長い。だから、絵を描いているときは、動物たちに会えているような感じがするんです。動物たちの暮らしを追体験している感じっていうのかな」。斜里岳のふもとにある自宅の庭で、あかしさんは何かを思い出すように、そしてうれしそうに話してくれた。
あかしさんの絵本のテーマは、「知床の自然と野生動物の暮らし」。その創作活動は、想像していたよりもずっと現場主義だ。たとえば、モモンガが主人公の絵本をつくると決まれば、モモンガの生態を知るための取材として、フィールドワークを行う。もちろん、野生動物と会う約束はできない。夜の間ずっと待っていても、実際にモモンガの姿を見ることができる時間は、「たった30秒程度」。その分、足跡や糞などモモンガが残した痕跡が、絵本をつくる上での重要な手がかりになる。
出版社の編集者と共に取材と校正を重ね、構成を練り、一冊の絵本ができるまでには、なんと3年もの月日がかかるという。そう聞いて思わず驚いてしまったが、野生動物を描くとはそういうことなのかもしれない。生態を知るためには四季を通した調査が必要になるだろうし、知ったことをもう一度確かめようと思えば、再びその季節が巡って来るのを待たなくてはいけない。そしてさらに、野生動物に実際に会える時間はほんの僅か。コツコツと、徹底したフィールドワークで集めた情報を元に、あかしさんは確かな物語を生み出しているのだ。
野生動物に会いたくて、知床へ
京都出身で、物心ついた時から身近な動物の絵を描いていたあかしさん。20代の夏、「北海道で野生動物が見たい」と訪れた北海道旅行がきっかけで、斜里町に移り住むことになる。
「車にキャンプ道具を積んで、小樽からいろんな場所を巡って、最後に着いたのが知床だったんです。知床の自然が世界遺産に登録される前で、今ほど観光客もいなかった。到着した時、霧も出ていたしもう日が暮れかけていたけど、せっかくだからと知床五湖を歩くことにして。怖くて駆け足で回ったけど、ほかの場所にはない特別なものを感じたし、森に『入れてもらっている』って感覚になった。ああ、森ってこういうものなんだって思った」。
すっかり知床の自然に惹き込まれてしまったあかしさん。一度京都へ戻った後、知床自然センター主催のボランティア・レンジャーの講習会に参加するため、再び知床へ。季節は冬になっていた。
「斜里駅からバスに乗り換えて、ウトロ地区へ向かっていた時、一面に広がる雪原がばーっと夕焼けに照らされているのを見たんです。なんてすばらしいんだろうって思った。前に来た時、みんなが『ここの冬はいいよ』って言っていた意味がよくわかった」。
「ここでもっと長く生活してみたい」。そう思ったあかしさんは、講習会を終えた後も知床に残ろうと決める。自然センターのレストランで働きながら、ボランティア・レンジャーの活動を続けた。「元々、野生動物に会いたくて北海道に来ていたし、描きたいって気持ちもあった。少しでも野生動物のことを知りたくて、ヒグマのGPS首輪の回収調査にも参加したし、フクロウの死体が見つかったと聞いた時には、スケッチをさせてもらいに行った。調査を手伝わせてもらいながら、たくさんのことを勉強させてもらいました」。
『しれとこのきょうだいヒグマ ヌプとカナのおはなし』
そんなある日、あかしさんは先輩ボランティアから驚くべき話を耳にする。「知床のヒグマが、人の捨てたペットボトルの飲みものを飲んだり、食べものを食べている」。
もちろんショックな出来ごとだったけれど、そうなってしまった原因も思い浮かんだ。「当時自然センターに来ていた人たちのほとんどが観光目的の団体客で、自然センターで映画を観たり、ソフトクリームを食べながら遊歩道を歩いたりして過ごしていました。ヒグマに関するインフォメーションもなかったから、自分たちが歩いた場所をヒグマが歩くかもしれないなんて想像できなかったと思うんです」。
そして同時に、強い意志が湧いてきた。「知床は、ヒグマが暮らす土地であること。エサになるようなゴミを捨ててしまったらどうなるかということ。そういうことを、どうにかして伝えなくちゃ」。1998年、あかしさんはその一心で、10分ほどの紙芝居を自作し、自ら上演を始める。それは、道端に捨てられた飲料水やお菓子の味を知り、人に近づくようになった兄ヌプと、その味を知らずに人里離れた森の中で暮らし続けた妹カナを巡る物語だった。
紙芝居にしたのは、「短い時間で、通りすがりの人の関心を引き付けられるものが必要だったから」。あかしさんが作った紙芝居は、自然センターを訪れる多くの人に知床のヒグマのことを伝え続けた。2008年には、その紙芝居を原作とした絵本『しれとこのきょうだいヒグマ ヌプとカナのおはなし』が、知床財団から刊行されることに。「絵本なら、もっとじっくり読んでもらえる!と思って、元々の兄妹の物語をベースに親子クマの物語を描きました」。そう話すあかしさんの表情には、喜びが満ちている。
絵本の中に、「ヒグマに食べ物を与えないで」とか「ヒグマに近づかないで」といった直接的なメッセージは出てこない。素朴で豊かなタッチで描かれる物語は、ヒグマが人の食べ物の味を覚えると「どうなるか」を想像する力をくれる。知ってさえいれば、想像できる未来があり、防げる行動があるはずだ。
共に生きるために必要な距離
あかしさんと話していると、表情や言葉の端々から「野生動物が大好き」なのだという気持ちが伝わってくる。だから、あかしさんがこう話してくれたときは、少し複雑な気持ちになった。
「元々、動物に会いたくて北海道に来ていたけど。20年以上ここで暮らした今、動物たちと人間は、本当は会わずにいるほうがいいかもしれないって思うようになった。動物たちにとって、人間と会うことは色々な面でリスクが高い。誰もが適切な方法で付き合えたらいいけれど、それはなかなか難しい。最近ヒグマのニュースが増えているのも、ヒグマと人の間にあるべき緊張感が薄れているからでしょう?」
野生動物と人との関わり方に、明確な答はない。たとえばヒグマの問題にしても、さまざまな意見を持つ人がいるだろう。ただ一つ思うのは、野生動物も、私たち人間も、それぞれ生きるべき場所があるということ。それぞれの場所で生活しながら、偶然姿を見かけたときは心の中でそっと喜ぶ。むやみに深追いはしない。そうやって、適切な距離を保っていく。そんな生き方も、「共に生きていく」ための一つの形ではないだろうか。
「絵を描いているときは、動物たちに会えているような感じがする」。あかしさんにとって、いちばん心置きなく野生動物と近づける場所が、絵本の中なのだろう。多くの野生動物が暮らす知床という土地で、彼らが生きていた時間を追いかけながら。あかしさんは今日も、絵筆を片手に確かな物語を描いている。
2022年春、知床自然センターから新しい絵本『しれとこのみずならがはなしてくれたこと』が出る予定です!