北海道の大地から生まれた器〈加地窯〉

ある目利きのセレクトショップのオーナーに、好きな北海道の陶芸家を尋ねたときのことです。迷うことなくすぐに返ってきたのが、「加地さんの器!」という答えでした。留寿都村の町はずれに工房兼自宅を構える、加地窯の加地学さんです。加地さんは、自作の窯に火を入れて器を焼きます。そのための薪から自分で森に入って伐ってくる。それも含めて「陶芸」だと語る、加地さんの暮らしと、これまでのストーリーを尋ねました。ワハハと大きく笑って、おしゃべりが止まらない加地さんにきっと、会いに行きたくなるでしょう。

Shop Data

加地窯
住所 留寿都村登165
電話番号 0136-46-3390
※ギャラリーを訪ねる際は、事前に連絡してください。
URL https://www.instagram.com/kachi_manabu/?hl=ja
飼っている犬の名前 はる

原始の時代へ想像を膨らませる加地窯の器


土器は、大地の土から生まれた。考えてみればそれはあたりまえのことなのだけど、なぜかその事が頭から離れない。それってすごいことだ。採ってきた木の実を保存したい。煮炊きをしたい。そうした、快適な暮らしへの希求。そのとき、足元にあったのが土だったのだろう。水を加え、粘土にして成形して。土器ができ貯蓄ができるようになったことで、人類の暮らしは大きく進歩していったそうだ。側にあるものを工夫しながら、人間は少しずつ前に進んできたのだろう。加地(かち)学さんの土を感じる器を見ていると、そんな、遠い遠い原始的な世界へ想像が膨らんだ。ああ、なんて力強くてかっこいいのだろう。それが初見の印象だった。

まだ雪が解け残る春先の留寿都村。尻別岳を望む町の外れに、加地さんが暮らす家と窯、ギャラリーがあった。会ってみると、器と同じくらい、いやそれ以上にパワフルな人だった。大きく笑うし、たくさんしゃべる。なるほどこの人があの器を生み出しているのか。会ってほんの数分で、大きく納得した。

まず出してくれたのは、加地さんが作ったカップに注がれたコーヒー。窓から差す斜陽が美しい陰影を生み出し、薪ストーブがあるこの家にしっくり馴染んでいた。かつて、加地さんが創作の道へ足を踏み入れたのも、こんな風にして出されたコーヒーカップがきっかけだったそう。しかしそこに辿り着く前に、物語はインドへ寄り道する。

無から有を生み出したいという衝動

札幌で生まれ育った加地さん。高卒で働きに出るも、腰を悪くして辞めざるを得なくなった。病院に行っても治らなかった腰痛が、カイロプラクティックで劇的に改善。それをきっかけに、誰かの役に立つような仕事をしたいと、鍼灸師の資格を取ることを思いついた( カイロプラクティックは資格取得までに10年かかると聞き諦めた)。自動車工場に住み込みで働き、200万円近くを貯めた。しかし、「頭のほうが溜まってなかった」加地さんは試験に落ちてしまう。手元に、時間とお金はある。「そしたら、インドに行きますよね?(笑)」。かくして加地さんはバックパックで旅に出た。

うら若き20代の青年。なおかつ行先はインドである。さぞいろんな面でカルチャーショックを受けるのだろう。そんな期待と共に話を聞いていたが、「いや、特にそういうのはなかったですね」とあっさり。旅に出る前、インドに関する本を読みすぎていたのが原因だと冷静に分析していた。大きなショックは、帰路、日本で起きた。

それは、成田空港からの帰りの電車で見た、日本人の生気のない表情だった。「なんかわからないんだけど、ただゾッとしたんです」。つい8時間前まで、人間の生きる力で満たされた、ギラギラした途上国にいたからだろうか。同じ人間なのにこうも違うのかと、そのギャップに驚かされた。電車に乗っている自分自身もまた、きっとみんなと同じ顔をしている。加地さんはそのとき、無性に何かを作り出したい気持ちに駆られたという。

「ものづくりなんてやったこともなかったんだけど、とにかく物を生み出したかった。無から有を」。

二日かけて札幌へ帰りついた翌朝、ちょうど母が出かけるところだった。聞けば、陶芸教室へ行くという。加地さんは迷わずついて行った。インドから帰って来て三日目のこと。これが、加地さんが陶芸に出合うまでのストーリーだ。

究極にシンプルな陶芸を求めて

やり始めてみると、道具をあまり使わずにできるところが気に入った。勉強を重ねるうち、いつも使っている電気窯の他にも、薪で焼く方法があることを知った。札幌の芸術の森で初めて窯に火を入れたとき、火の持つ根源的な力に強く惹かれた。土も薪も、山から取ってくればいい。労力さえあれば材料は揃う。「究極にシンプルだよね」。

無から有を生み出したい。そんな加地さんの欲求に、陶芸の世界はまっすぐ応えてくれた。何もないところから、自分の手と、山にあるような材料を使って物を生み出すことができる。加地さんがやりたい陶芸の方向性は、2年半ほどかけて固まりつつあった。

そのうち、薪窯の本場を見てみたいと思うようになっていく。お金を貯めてバイクにテントを積み、遠くは沖縄まで、日本全国窯元巡りの旅に出る。「次、ここ行ったらいいよとかって、行く先々で会う人が情報を教えてくれて」。愛知にいたときに紹介してもらったうちの一人が、後の師匠となる「南蛮焼き」の名士、森岡成好(しげよし)さんだった。会いに行って、最初に出されたコーヒーカップに、加地さんは衝撃を受ける。

「こんっなすごいものを作る人がいたんだ…」。これまで見たどんな器よりも、心にズシンと響くものがあった。初めて見た “本物”の風格に、心と体を奪われた。頭より先に、「ここで修業させてください」と口走っていた。

「南蛮焼き」とは、南蛮貿易が始まった16世紀に東南アジアからやって来た陶器のことだ。釉薬を使わず、赤土を低温で焼いて仕上げる。薪窯で焼き締める過程で散った灰が、土に含まれる鉄分と反応することで、赤やオレンジ、黒や青などさまざまな色に変化する。焼くときの場所や温度で色の出方が変わるため、ひとつとして同じものは生み出せない。

南蛮焼きを学ぶため、3年半師匠に師事した加地さん。学んだのは、技術だけではなかった。山菜採りに、釣りに大工仕事。展覧会の準備で毎日本当に忙しかったのに、師匠は暮らしのために手を動かすことをやめなかった。

「手ってね、覚えてるんだよね」と加地さん。手紙を書いたこと、料理をしたこと。笑ったこと悩んだこと。いろんなことを経験した手で作ることで、作品に技術以上のものが込められていく。加地さんは師匠との暮らしの中で、そんな大切なことを学んだ。

新しい陶芸のスタイルを、北海道で

陶芸を始めるには、陶芸用の土がすぐに手に入る本州のほうがはるかに便利だ。だが、全国を回っていろんな人に話を聞くうちに、伝統や慣習のない北海道で、自由に自分なりの陶芸をしたいと思い至った。1999年、加地さんは縁あって留寿都村のこの地に根を下ろした。

旅の途中で出会った妻と結婚し、子どもも生まれた。けれど、すぐに陶芸一本で暮らしが成り立つことはなかった。農家や美術の臨時教員などを掛け持ちし、窯を造り、サイロ型のギャラリーを建て、自分の手で環境を整えていった。少しずつ展覧会開催の誘いが増え、陶芸家として生きていけるようになるまで8年。気づけばすでに30代半ばを迎えようとしていた。「始めるのが遅いよって言われるけど、こういう時間の流れにいたから仕方がないよね」と加地さんは笑った。

窯やギャラリーを案内してもらうと、思った以上にハンドメイドであることが伝わってきた。そこかしこに加地さんの色濃い気配が漂っている。きっとここで膨大な時間を過ごしてきたであろうことが自然と想像できるような、圧倒的な気配。最もそれを感じたのは、陽だまりに佇むろくろの周辺だ。電気を使わず、蹴ってろくろを回す蹴(け)ろくろを使っている加地さん。碗を作るまでの工程を見せてもらった。

緊張感が張り詰める、成形の瞬間

器は小手先だけでなく、全身を動かして作るもの。そのため、ろくろを回すときは肘を膝に置かず、自在に動かせるようにする。へその下の丹田と呼ばれる部位を意識して、スッと背筋を正して座る。流れるように身体を動かして、器に力を込めるのだ。まず、右足でろくろを数回サッと蹴る。勢いよく土の塊が回り出した。塊を両手で包み込み、使う分の量だけを取り、くびれを付ける。親指を塊の中心にグッと押し込むと、周辺が盛り上がり鉢のような形状になる。右手の親指と人差し指の間に縁を挟み、碗の厚みを均等にする。手首や指の力加減を調節し、形を作る。親指と人差し指の間で縁を挟み込み、締めて(後で割れないよう、粘土の密度を高くすること)成形する。最後に、すべての指を少しずつ縁のほうへ沿わせて、スッと器から手を放す。この間、わずか10秒ほど。目にも止まらぬスピードで、土の塊から物を生み出していく。まるで魔法のよう。

「器に力を込めるためには、スピードが大切」と加地さん。イメージした形に近づけようとすると、何度も手を加えたくなる。そこをグッと堪えて、なるべく手数を少なくする。それによって、自分の気持ちをそのまま器に乗せられるそうだ。「手数が多くなるのは、技術と作る量が足りないということ」。そして、「自分は師匠に比べるとまだまだ」とも付け加える。

成形の工程で最も思いが込められているのは、器の縁を作るところだ。湯呑でいうところの、口を付ける部分。ここをきれいに整えるため、紐を使って「口切り」し、なめしで作りこむやり方などもある。けれど加地さんは、そこを自分の手だけで作ることを大切にしている。縁を締めて手を離すとき、グッと思いを込めるのだ。「縁は、悠々と、伸びやかに、こう…広がっていたいからね!」。

実体としての器は手のひらに乗るサイズだったとしても、加地さんの器はそれだけに留まらない。縁から見えない線が伸びて、容量以上のたくさんのものや思いまで容れられるような、まさに「器が大きい」、そんなイメージ。

雄大で繊細な、北海道の大地の土

南蛮焼きの器は、土の性質が表面に出るのが特徴だ。陶芸に使う土は北海道の各地から取り寄せたオリジナルブレンドで作られる。野幌(のっぽろ)、剣淵(けんぶち)、小樽、留辺蘂(るべしべ)、豊頃(とよころ)、滝上(たきのうえ)、蘭越(らんこし)…。作りたいものに合わせて、配合を変えて作る。こうして焼き締められた器は、言わば北海道の土らしさが表れたものと言えるだろう。無骨さと素朴さ。なみなみ注ぎたくなるような器の大きさ。そんな印象を受けるのは、北海道の雄大な大地の土を使っているからこそかもしれない。

実は、北海道の土は陶芸の産地のものと違って、成分の面でも、焼成の温度の面でも陶芸に適した土とは言えないそう。粒が細かく、そのまま焼くと割れやすい。そのため砂を加えて粗くする必要がある。また、焼き締める温度にも細心の注意が必要。たとえば1200度では低くて焼けず、1250度では高すぎて割れてしまったりもする。繊細さを必要とする土なのだ。

それでも、陶芸が焼き物である以上、一番は「やっぱり“焼き”で勝負がしたい」と加地さん。南蛮焼きは低温で焼き締めるため、時間がかかる。ということは、それだけたくさんの薪が必要だ。使う薪は、近くの山から加地さんが伐り出したもの。敷地内に壁のように積み重ねてあった薪は、すぐに使い切ってしまうそう。

加地さんが作りたい、“良いもの”とは

効率を選べば、灯油窯や電気窯などさまざまなやり方があるだろう。けれど、加地さんは気づいていた。「効率が良いものではなくって、ただ“良いもの”が作りたいだけ」。

加地さんが目指す良いものとは、一体どんなものなのだろう。話の節々に何度も出てきた「立ち上る」という言葉がそれなのだろうか。技術や形、色など、目に見えるもの。それを越えてくる「何か」があること。

さまざまなことを経験した手で器を作ることの大切さ。師匠に教えてもらったことを、まるごと実践する加地さん。土を自ら配合するのも、木を伐り薪を割るのも、すべて含めて加地さんの陶芸。それだけじゃない。留寿都村を訪れるたくさんの人たちとの出会い。5人と1匹で営んできた家族の暮らし。すべてが、加地さんの器を形づくっている。

帰り際、ギャラリーに忘れ物をしたことに気づき、一人で取りに戻った。暗がりの中で、天井の窓から差し込む小さな光が、器を優しく照らしていた。壁に並んだそれらの、えも言われぬ気配を前に、しばらく見入って体が動かない。春に土の下で蠢(うごめ)く、無数の命のよう。器が生きている。そう感じた。

加地さんの器から立ち上るもの。それは、手間も苦労も厭わず、すべてを楽しむ加地さんの魂が、手を伝って、指先から器に宿った、生きている鼓動なのだろう。

(取材時期 2020年5月25日)

加地学さん

「スロウ日和をみた」で、得意のおしゃべりを披露します♪

この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.63
「カヌーで辿る、川のはなし」

「カヌーイストの聖地」と呼ばれる川がいくつもある北海道。豊かな自然、歴史や文化。さまざまな角度から北国のカヌーの魅力を伝える。

この記事を書いた人

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スロウ日和編集部

好みも、趣味もそれぞれの編集部メンバー。共通しているのは、北海道が大好きだという思いです。北海道中を走り回って見つけた、とっておきの寄り道情報をおすそ分けしていきます。