微生物の力を借りたパンの力〈此方〉

築120年の古民家を改装し、2015年にオープンした厚真町のパン屋、此方(こち)。自家製酵母の微生物としての作用に着目し、その力を借りてパンを焼いています。自家製酵母と粉と水だけで作るパンは、白米や玄米と同じように食事の土台として食べられます。ほかにも、厚真町名産のハスカップや、ハーブ、トマトなどの野菜を使ったパンも。レトロな雑貨や地元の陶芸家の器、こだわりの調味料などの販売スペースもあります。

Shop Data

此方
住所 厚真町豊沢240-80
電話番号 0145-29-7920
営業時間 10:00~夕暮れまで
定休日 火・水曜
URL
https://m.facebook.com/koti.jikaseikoubo
ここにも注目 築120年の旧畑島家住宅を活用した店舗

素朴でありながら、緻密で繊細。高田さんの姿を映したようなパン

洗いざらしのリネンのような女性。高田真衣さんをそう表現させてもらったのは、11年前のことだった。本誌編集部が発行するムック本『パン屋さんに会いに行く』で訪れた際、札幌市内で「madouce bakery」を切り盛りしていた高田さんは今、厚真町でパンを焼いている。

新しい店の名は、此方。2013年に移住し、2015年に店を開けた。美しいパン。それが、此方を訪れて最初に抱いた印象だった。ふっくりと丸いカンパーニュや、見るからにずっしりと重いライ麦パン。食べたときのバリッという音まで聞こえてきそうな、ツヤのあるバゲット。目の前に並ぶパンはどれも素朴ではあるが、緻密に、繊細に、丁寧に作られたことを感じさせる美しい姿をしていた。

パンへの興味は、酵母を構成する微生物への興味から

高田さんがパンを焼くようになったきっかけは、微生物への興味。大学では応用微生物学教室に所属し、環境分野の研究に励んでいた。環境汚染の浄化に微生物が不可欠であることなど、知れば知るほど、「微生物はすごい」と思わされることばかりだったという。そんな学生時代のある日、研究室に置いてあったパン酵母の存在に目が向いた。「それでパンを焼いてみました。でも、やっぱり家で焼くのは難しいということがわかって」。兼ねてから「食」に対する関心が高かった高田さん。食品関係の仕事を経験したいという思いと、パンがうまく焼けなかったことで刺激された知的好奇心が原動力となり、卒業後はパン屋で修業することを決意した。

こうしてパン職人の道を歩み出した高田さんにさらなる転機をもたらしたのは、修業中に知った天然酵母の存在。天然酵母パンの先駆けともいえる「ルヴァン」の甲田幹夫氏の著書に出合ったことで、大きな衝撃を受ける。「こんなパンがあったんだ!」。自分がずっとやりたかったのは、こういうことだったのかもしれない。独学で知識を深めるにつれ、自身の無知にも気がついた。「子どもの頃から玄米や胚芽米を食べていたし、白砂糖は使わなかった。でも、全粒粉で作るパンのことや、小麦畑のことなどは全然知らなかったんです」。

天然酵母を自家培養して、「それだけ」でパンを焼いてみたい。勤めていたベーカリーでも、「焼いてもいいよ」と後押ししてくれた。当時からイメージしていたのは、玄米のようなパン。それは、高田さん自身が「食べたい」と心から思うパンでもある。砂糖やバターを使わずに、天然酵母と粉と水だけで作るパン。白米よりも玄米を選ぶような感覚で、食事の土台として選んでもらえるパン。

今でこそ天然酵母という言葉は一般化したが、当時20年ほど前、天然酵母だけを使ってパンを焼く店は少なく、ニーズもそれほど多くはなかった。しかし、高田さんが焼いた天然酵母のパンを店頭に並べると、手に取ってくれる人がいた。「今やらないと!と思いました」。高田さんは2004年、札幌市内で独立を果たした。

「どんな小麦粉を使うかということより、どんな酵母を使うか」

ひと口に天然酵母と言ってもその実態はさまざまで、とても一括りにできるものではない。だから高田さんは、酵母について話すとき必ず「私の場合は」と表現する。自家培養の酵母は、「菌叢(きんそう)」と呼ばれる微生物の集まりでできている。一方ドライイーストなどの既製品は「純菌」と呼ばれ、一つの菌で構成されていることが多い。天然酵母のパンがいつも均一に焼けないのは、菌の種類の複雑さが影響しているらしい。菌叢の「叢」は「くさむら」とも読む。草むらのように、さまざまな微生物が生き、複雑に作用し合うことによって出来上がっているのが天然酵母というわけだ。だから一つとして同じものはない。此方の天然酵母は、此方だけの天然酵母なのだ。

環境変化を与えないため、工房から一切出さないようにしているという酵母を、撮影用に取り分けて見せてもらう。プツプツと細かな泡(ガス)が発生していて、表面はふっくらと膨らんでいるようにも見えた。この時点ですでに、おいしそう。「どんな小麦粉を使うかということより、どんな酵母を使うか。焼き上がったパンの香りは、酵母に大きく左右されます」。だから、店を訪れた人が大きく息を吸って「ん~良い香り!」と呟いてくれることが、高田さんにとっては何よりうれしいのだそう。

素材そのものがいいから、おいしいのはあたりまえ

此方のパンの材料は、北海道で生産される有機小麦やライ麦、玄米などと、水と塩。厚真町名産のハスカップや、ハーブ、トマトなどの野菜を使うこともある。いずれも「できる限り、お会いしている人のものを使う」と決めている。どこでどのように生産されたかわからないものよりも、知っている人が作ったもの、成り立ちがわかっているものを選びたい。店頭で敢えて話すことはないそうだが、心の中には強い思いがある。そして、「ちゃんと作られたものであれば、何でも大丈夫。私が作りたいものに合わせて『この粉を使いたい!』と主張するんじゃなくて、素材がどう生きてきたのかを考えて、その良さを引き出すだけ」とも。

「『おいしいですね』って言われると、『そりゃそうだよ!』って思うんです。素材そのものがおいしいんだから」。焼いたパンが褒められればもちろんうれしいが、それも、高田さんの話ぶりから推測するに、「自分が褒められたからうれしい」のではなく、「仲間が褒められたことに胸を張っている」という雰囲気。酵母もパンも作物も、すべてを自分のそばにある、自分とは別の「生命」(もしかしたら、仲間?)と捉えているのかもしれない。おいしく作ろうとか、こんなふうにしたいとか、自分の思い通りにさせようという我が一切伝わってこないのだ。材料を使ってパンを作るというより、微生物や作物と一緒に暮らしている、という表現に近い。しかもそれを、本人はあたりまえのこととして過ごしている。

麦の粒を、そのままパンに。挑戦は続く

最近、高田さんが熱心に取り組んでいることがある。それは、粒小麦を使ったパン作り。粒小麦とはその名の通り、挽いていない粒のままの小麦。これまでにも粗挽きの小麦粉を使いたいからと、石臼で自家製粉することはあったが、とうとう麦の粒を「まるごと」使うパンに挑戦することに。もちろんそのままではパンには使えない。ここで利用したのが、発酵の力。微生物の作用に詳しい高田さんらしい発想だ。玄米の場合、発芽させたり発酵させたりしていただく方法がある。同様に麦でそれを試しているのだという。浸水させ、発酵させることで香りがより引き出せれるのだそう。日によって使う麦が違うため、「本日の粒小麦」の名前で棚に並ぶそのパンは、見るからにプツプツとした粒感があり、無骨さがかえって可愛らしくも見えた。

かつて研究室で微生物の培養に明け暮れた日々と同じように、今も、小さな生きものをどうやって活かしていくかを日々考えているのだろうか。本人に尋ねてみても「今言われて初めて、そんな気がしてきました」と、あくまでも自然体の返答。それでも、「微生物を『面白い』と思う感覚は、変わらずあります」と付け加えてくれた。

食べ方も味わい方も、自由気ままに

こんなふうに聞かせてくれたさまざまなこと、高田さんが客に語ることはあまりないのだという。「どんなとき、どんな食材と合わせてもらいたいですか?」と質問してみても、「いつでも、何でもいいんです」とひと言。高田さんが思うベストな食べ方は、たしかにある。パンは油分と塩分で香りが変わるから、オリーブオイルと菜種油では違った風味になること。焼き上がりの翌日になって出てくる香りが良いこと。抹茶とバゲットが意外にもよく合うこと。けれど聞かれなければ、多くは語らない。「食べ方も保存方法も、その人の感覚次第だと思うから。食べる方の手間や負担にならないように、買われる方にどんなことをお伝えしたらいいか、いつも考えています」。

玄米を食べるように、食べるパン。

どこまでも自然体でありながら、骨太な気構えを持つ高田さん。やはり彼女は、しなやかで気持ちの良い、洗いざらしのリネンのような女性だった。

(取材時期 2019年10月25日)

高田真衣さん

「スロウ日和をみた」で、厚真町近郊のおすすめ情報お伝えします♪

この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.61
「パンは語る」

道産小麦もあたりまえになりつつある現在。BIO小麦や薪窯、酵母。それぞれのこだわりを追い求める、北海道のパン。

この記事を書いた人

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片山静香

雑誌『northern style スロウ』編集長。帯広生まれの釧路育ち。陶磁器が好きで、全国の窯元も訪ねています。趣味は白樺樹皮細工と木彫りの熊を彫ること。3児の母。