名寄市の鈴木さんと辿る、カヌーと天塩川の歴史旅

アイヌ、北国でカヌー、名寄市、松浦武四郎、歴史
天塩川で毎年行われる、カヌーイベント「ダウン・ザ・テッシ‐オ‐ペッ」

北海道には、「カヌーイストの聖地」と呼ばれる川がいくつもあります。道北を流れる北海道第二の大河、天塩川もそのひとつ。江戸時代、この川を遡りながら、北海道沿岸部から内陸部にかけてを調査し、詳細な地図を作成した人物がいます。松浦武四郎です。過去の資料を繙(ひもと)きながら武四郎とアイヌの交流に触れることで、現代の天塩川とカヌー文化の原点が見えてきました。案内人は、名寄市北国博物館の元嘱託学芸員、鈴木邦輝さんです。

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名寄市北国博物館
住所 名寄市字緑丘222
電話番号 01654-3-2575
入館時間 9:00~17:00(入館~16:30)
定休日 月曜、年末年始
展示物に注目 館内に展示されている松浦武四郎とアイヌが乗った丸木舟の人形は、博物館のスタッフの手づくりです。

参考文献
※1天塩日誌 現代語版(北海道上川総合振興局、国土交通省北海道開発局旭川開発建設部名寄河川事務所)
※2 道北文化研究No.11―丸木舟の製作実験と天塩川下り―(名寄郷土史研究会)

天塩日誌を複写したもの(写真提供/名寄市北国博物館)。こちらは、丸木舟で川を行く武四郎とアイヌ。天塩日誌は調査記録のダイジェスト版でフィクションも混じっていると考えられる。武四郎のスケッチを元に絵師に描かせた挿絵が多数掲載されている。アイヌの丸木舟には船べりが高い流水用と、船べりが低い静水用があるそうだが、この旅では流水用の丸木舟が用いられたことが推測できる

北海道第二の大河・天塩川を調査した松浦武四郎

松浦武四郎が北海道北部を流れる天塩川流域を調査したのは安政4年(1857年)。その行程は主に丸木舟に乗ってのものだった。丸木舟を提供したのは地元のアイヌ。彼らは現地に詳しい案内人として調査に同行している。

武四郎に着目したのは、歴史的背景を知ることで天塩川でのカヌーをより深く楽しめると考えたから。しかし取材を進めるうちに、もうひとつの可能性が浮かび上がってきた。武四郎の旅路を通して、天塩川に根づくカヌー文化の原点に触れられるのではないかということだ。

武四郎は、調査の内容を多くの資料として遺した。江戸幕府に提出された『東西蝦夷山川地理取調日誌(とうざいえぞさんせんちりとりしらべにっし)』、紀行文として発行した『天塩日誌』などだ。その一部は、名寄市北国博物館に所蔵されている。「武四郎さんは、天塩川流域の自然と歴史を伝える達人です」とは、博物館の元嘱託学芸員の鈴木邦輝さん。武四郎の旅路やその人柄について、独自の解釈を加えながら教えてくれた。

武四郎が見た天塩川と、川筋のアイヌの暮らし

案内役となったアイヌについて、天塩日誌には「水夫」と記されている。旧暦6月、武四郎たちは2艘の丸木舟に乗り込み、天塩川の河口から上流を目指した。2名ずつ4人のアイヌが、舟の前後で櫂と竿を使って操船したという。

資料を元に手づくりで再現した、武四郎の天塩川流域調査時の様子。中央が武四郎、前後はアイヌの案内人たち。(名寄市博物館展示)

持ち物は方位磁石、矢立(やたて/筆記具)、野帳(のちょう/メモ帳)。頭巾と笠を被り、防寒用の毛皮、雨具の蓑、手甲を纏って、足元は足袋に草履を履き、脚絆(きゃはん)といういで立ち。装備は、マキリ(小刀/アイヌ語)、タシロ(山刀/アイヌ語)、杖など。雨除けや野宿のための、キナ(ガマで編んだ敷物/アイヌ語)、渋紙(重ねた和紙に渋柿の汁を塗ったもので撥水作用がある)。道中で食料となるサケなどの動物を捕るためのマレップ(鉤銛/アイヌ語)や弓矢一式。そして川筋に住むアイヌの人々への土産。必要最少限の荷を丸木舟に積み込んでの旅だった。

武四郎が調査内容をメモした野帳の第五巻(複製)。矢立は当時の携帯筆記具で、筒に筆を入れ、筆先の蓋付き容器には墨を染み込ませた綿が入っている。(名寄市博物館展示)

川の流れが最も強く速い流心を避け、淵(流れが緩やかで深い)を通りながら、瀬(流れが速く浅い)を横切るようにして流れに巻き込まれないように。丸木舟は不安定だが、重心が低く舟底に水流の抵抗を受けにくい。櫂と竿を巧みに扱うアイヌに助けられ、武四郎は往復24日に及ぶ旅を完遂した。

川に沿って、現在の天塩町から豊富町、幌延町へと遡り、最終到達地は士別市。復路は、遡ってきたルートを下って河口まで戻っている。当時で片道およそ200キロ。川を遡りながら武四郎が目にした景色はどんなものだったのか。「下っていては気づきにくい、天塩川に流れ込む支流がよく見えたでしょう」と鈴木さん。武四郎はアイヌが交通路として日常的に使用していた天塩川の支流にとりわけ強い興味を示し、支流のアイヌ語名と周辺の地形を詳細に記録している。

音威子府村と美深町の境あたりの川では、「テツシ(急流)というところ、川の流れに岩が一列に並んでやなをかけたようにみえる(※1)」とある。それを見た神が魚を捕獲する仕掛け(梁やな)を思いついた、というアイヌの伝承にも触れられていた。

武四郎はこのように、地形だけでなく道中出会ったアイヌの暮らしぶりについても多数の記録を残している。ごちそうしてもらったトレフ(ウバユリ)の団子、そのお礼にと、携えてきた米で粥を振る舞ったところ大層喜ばれたこと、トンコリ(琴のような楽器)の音色の雅やかさ、さまざまな民具や儀式。また、川岸で見つかるトイチーという鉱石を薬に活用していると聞き、「アイヌの間で既にその長い経験から、この石の効能について知られ、使われているなど、非常に珍らしいことと思う。(※1)」としきりに感心している。

武四郎が目にしたアイヌの民具。葉椀(はわん)、五弦琴、口琴(こうきん)、浮き子、木のキセル。※1より画像を抜粋。

「武四郎さんは、アイヌとの交流を通して多様性の大切さを知ったのだと思います。そして自分自身の価値観も変化させている」と鈴木さん。武四郎の蝦夷地調査は、ロシアの侵略に対する危機感から始まったものだった。しかし旅を通して、目を向ける先が次第に広がっていったことが遺された資料から伺える。北海道地図を完成させた武四郎の功績は高く評価され、明治政府では高官に任ぜられた。しかし北海道の開拓政策(武四郎はアイヌとの共存を訴えていた)を巡って対立し、辞職。そんな人間味にあふれるところにも魅力を感じるのだと話してくれた鈴木さんは、どこか誇らしげだった。

人の思いが、現代へつなぐもの

武四郎のアイヌへの思いが、時を超えて確かに受け継がれていたように感じられる文が、名寄郷土史研究会が1982年に発行した報告書(※2)に記されている。その報告書は、手づくりの丸木舟で天塩川を下る実験についてまとめられたもの。概要に「アイヌ民族の暮らし方や物の考え方について判ってくるに従って、『天塩川』を軸として生きた先人達の『交通路』を古式にならって丸木舟を作り、天塩川下りの体験をしたいと考えるようになった。」と綴られていた。古い伝承や資料を元に製作されたその丸木舟は、武四郎が乗ったものと近い形状と考えられる。

武四郎は、「古い日本の習俗で今は絶えてしまったものが、却ってこの地方のアイヌの風俗中に遺っている(※1)」と述べている。近代化に向かう日本が置き去りにせざるをえなかったものを、そこに見出していたのかもしれない。

今では多くの人がカヌーを楽しむ場所となった天塩川。1980年頃、丸木舟を自作して川下りを敢行した人々の熱意。かつてこの地を旅し、見たものを多くの人に伝えたいと願った武四郎の信念。そしてその遥か昔から、この地に根ざして営まれてきた人々の暮らし。

受け継がれ、異なる価値観と混じり合い、一部は失われながらも、人の意思によって今この時代にまでつながれてきたものが確かにある。そのことに、深い畏敬の念を覚えずにはいられない。

この記事の掲載号

northernstyle スロウ63号
「カヌーで辿る、川のはなし」

「カヌーイストの聖地」と呼ばれる川がいくつもある北海道。豊かな自然、歴史や文化。さまざまな角度から北国のカヌーの魅力を伝える。

この記事を書いた人

家入明日美

家入明日美

火の国・熊本出身。野生動物の勉強がしたくて北海道へ移住し、自然のことを伝えたくてスロウ編集部に入る。馬とナキウサギ、やんちゃな飼い猫と怒髪天が心のオアシス。