長沼町に店舗を構える丘の上珈琲。師匠のそのまた師匠から受け継いだ味を守り続ける、焙煎士武山敬二さんの姿がありました。目指しているのは、「一点の濁りもない珈琲」です。実はいま、水面下でつぎの担い手への継承が始まっているそうです。(取材時期/2018年11月)
Shop Data
丘の上珈琲
住所 長沼町字加賀団体
電話番号 0123-88-0820
営業時間 11:00~日没ごろ(10~2月は17:00まで)
定休日 水曜
URL https://okanoue-coffee.com/
「この味がわかるなら、誰でも焼けます」。
1年ぶり、いやそれ以上だろうか。久々に丘の上珈琲の珈琲を飲んだ。この1年、本書を発行するためにいろいろな珈琲を味わってきた。もちろん自家焙煎ばかり。たくさんのこだわりを舌で感じてきたからこそ、丘の上珈琲の一杯の違いがわかる。苦味や酸味のない中庸の味。珈琲らしい香りが鼻に抜ける感覚がありながら、スッと身体に浸透していく。気がつけば飲み干しているのだ。店主の武山敬二さんが目指すのは「一点の濁りも無い珈琲」。継承のストーリーを聞いたら、もっと好きになってしまった。
武山さんの物語は、師匠との出会いに始まる。だが「一点の濁りも無い珈琲」のルーツは師匠の、そのまた師匠の話にまで遡らなければならない。少しだけ長くなるが、おつき合い願いたい。武山さんの師匠の師匠は、大阪のなんばで「なんち」という店を出していた襟立博保(えりたてひろやす)氏である。珈琲に詳しい人なら一度はその名を聞いたことがあるかもしれない。銀座の名店「カフェ・ド・ランブル」の店主、関口一郎氏(2018年に103歳で逝去)と共に、かつては「東の関口、西の襟立」とも称された人物である。博保氏は元はというと設計士だった。東京タワーや歌舞伎座、通天閣などの構造設計を担当した内藤多仲(たちゅう)氏の教え子で、自身も堺筋の松坂屋の設計などを手がけて裕福な暮らしをしていたという。
太平洋戦争が終結し、焼け野原となった大阪では仕事がなくなってしまったため、副業として珈琲店を開業。趣味で学んだブラジル珈琲の焙煎や抽出法をもとに、「ブレンドの名人」として客の好みに合った一杯を出していたそうだ。
博保氏は1975年に惜しまれつつ生涯を閉じている。そこで立ち上がったのが博保氏の三男、稔規(としき)氏である。「父の珈琲の味を残さなければならない」と勤めていた銀座三愛の店舗デザイナーの職を辞し、転勤先として住んでいた札幌で珈琲店を開いた。東京の美大出身で「ゴッホのひまわりに匹敵するような一杯を作りたい」と話した芸術家肌。作り手も受け取る側も知識が深いほど、感動が大きくなるという意味だ。本をたくさん読む人で、幅広い知識を身につけた紳士だったそう。彼こそが武山さんの師匠にあたる。
襟立稔規氏の日常には幼い頃から珈琲があった。「親父の弟子だという人は何人もいるけれど、親父から弟子がいるなんて聞いたことがない」。「伝説の襟立珈琲」の継承者を名乗る人はいるが、稔規氏は父の手法を正しく継承したかった。稔規氏は受験浪人をしていた時期に父親の焙煎を手伝ったことがあるが、それは5人兄弟のうちひとりだけであった。
衝撃を受けた、初めての珈琲
札幌市内で「リヒト珈琲」を営んでいた稔規氏。その店を訪れたのが、当時大学生だった武山さんである。きっかけは些細なこと。「アルバイト先の店長に薦められて。あまりにもしつこく『行ってきたか?』と聞かれるものだから、話題作りのためにやむなく行ったんです」。だが武山さんは初めてリヒト珈琲を訪れたときのことを詳細に覚えている。「どうやら豆は焦げていない。じゃあ酸っぱいだろうと期待はしていなかった」。武山さんは珈琲が嫌いだった。差し出された珈琲をひと口飲んで出たのは「えーっ?!」という驚きの声。これには稔規氏も心配になり「どうかしました?」と返す。武山さんはひと口、またひと口と飲みすすめながら「おかしいなあ?」とか「うまい」とか言葉をこぼした。気がつけば一杯が消えてなくなっていた。武山さんは「ちょっと、お願いがあるんですけど、もう一杯同じものをください」とオーダー。二杯目を飲んで「すっげー!」と確信を抱いたという。その場で「これって、僕でも焼けますかね?」と聞いた。稔規氏は「この味がわかるなら、誰でも焼けます」と答えた。
こうして武山さんの珈琲人生は始まったのだ。
渋くもない、酸っぱくもない、それでいて焦げてもいない。どうしたらあんな珈琲が焼けるのだろう。武山さんはリヒト珈琲に通った。「最初の頃は『また来たよこいつ』という感じで(笑)。終いには『僕は教えないからね。僕は珈琲を作るのが仕事だから』と言われてしまった」。では武山さんはどうやって学んだのか。毎日、自宅で珈琲を焼いて、師匠に見てもらう。その繰り返しだった。学生の武山さんに焙煎機を買うお金などなく、コンロの上で手網を使って焼いた豆を毎日持って行ったという。師匠はその豆を見ただけで良し悪しがわかるのだ。「武山くん、これ火が強すぎるよ、後のほう」とか、「最初、まだ火が弱いほうがいいね」とか。武山さんは師匠のコメントを反復しながら家に帰り、また豆を焼くのであった。襟立珈琲は赤外線を使用する。下から直火を当てながら、横から赤外線で温める。人間が赤外線ストーブに当たると身体の芯まで温まるように、豆も中身を温めるのだ。これは襟立博保氏が考案し、特許を取得した技術である。「赤外線は先行するんだよ」というのは稔規氏の口癖。豆の中と外を均一に焼くことで、渋みやえぐみがなくなるらしい。武山さんは家庭ごみとして出されていた小さな赤外線ストーブを分解し、コンロの上に置いて使った。こうした努力の後、師匠と武山さんが納得する味が出せたのは、通い始めて1年以上が経過した頃だった。
「最初で最後の弟子」として
武山さんは25歳のとき、店を出すことを決意した。きっかけは師匠が「この珈琲が日本のアベレージ(平均)になるといいよね。本当においしいものを失くしちゃ駄目だよね」と話すのを聞いたから。これを広めるお手伝いをしたい。そんな思いから開業準備を始める。最初は「食えないからやめとけ」と止めていた師匠。それでも新しい店の図面を見せると、店舗デザイナーの血が騒いだのか、反対していたにも関わらずいろいろと手伝ってくれた。「師匠は新聞に連載を持っていたんですよ。そこに『最初で最後の弟子が店を出す』と書いてくれた。わっ、と熱くこみ上げるものがありました」。1984年2月1日、武山さんは念願の店を札幌市内でオープン。5坪ほどの小さな店であった。
豆を焙煎すると音と煙が出る。住宅が密集する場所にあった焙煎場所は、ベストな焙煎環境ではなかった。近所に迷惑をかけていないだろうか。店を出して7年、長沼町への移転を決意した。隣のマンションで赤ちゃんが生まれたのもきっかけのひとつだった。
札幌市から車で1時間ほどの長沼町の丘の上。今でこそ住宅や別荘が50軒ほど立ち並ぶが、武山さんが焙煎場所を移転した1989年は水道すら通っていなかった。携帯電話が通じたのも数年前。自然豊かだけれど少し不便な、珈琲の焙煎をするにはうってつけの場所である。「好きな仕事が嫌いにならないように。そう考えて選んだのが長沼でした」。水は湧き水を溜めて使い、冬の雪の多い日は地域の人に除雪を手伝ってもらったこともある。開店した当時は客が来ない日もあったそう。それでも地道に店を開けていると、口コミが広がって札幌圏や本州からも客が訪れるようになった。
変わらないことを毎日続ける
丘の上珈琲のスタイルは変わっていない。丁寧にハンドピックをして、目を離さずに焙煎をする。武山さんはぴったりとくっついて、加減を調整する。師匠の言葉を今でも反芻。「最初は焼かない。焼く準備をしているんだ」。豆を出す瞬間はコンマ1秒の世界で、武山さんはそれを音で判断するという。「2回目に爆ぜるときの音。焦げる前兆なんだけど『ピチッ』という。豆がなんか喋ってるぞ~という感じ。豆自体もシャラシャラッと軽くなる」。ただし普通の人間には焙煎機の大きな音が邪魔をして聞こえない。手網で焼いていた武山さんにはその音が聞こえるのだ。豆の音が身体に染みついているらしい。
ハンドピックをするのは中藤滋さん。30年以上前から武山さんと一緒に仕事をする職人だ。珈琲豆は農作物である。悪い豆を取り除いてあげれば、自然と透明度のある珈琲になる。武山さんは「ひとつでも悪い豆が入っていると、俺がいくらやってもアウト。お客さんはまずいと思ってしまう」とハンドピックの重要性を語る。生豆よりも焼き上がった豆の選別が鍵を握るという。
師匠である襟立稔規氏が最後の最後に教えてくれたことがある。慣れてきても、何千回目でも何万回目になっても、焼く前に「誰よりもおいしい珈琲になるように」と思うこと。武山さんは今も忘れずに願いを込めて焼いている。もうひとつ、大切にしているのは毎朝『そふとブレンド』を飲むこと。妻と2人で3杯ずつ、朝一番に何も食べてない状態で珈琲を口にする。人間は苦みには慣れることはないらしく、朝は耐性がリセットされている状態。「そふとブレンドが真ん中にあるかどうかを確認する」ためのルーティーンだ。
「うまい料理があったとして、その中にゴミが入っていたら嫌ですよね。それと同じ。よく焼けた豆の中に、味を壊す豆を残したくない」と武山さん。目指しているのは、師匠が出してくれた感動の一杯。武山さんはもうすぐ60歳。
実は今、継承の準備が水面下で進められている。「私、できると思う」と引き継ぐ意思を表明した長女、「姉ちゃんに渡す前に経営を安定させる」と立ち上がったコンサルタントの次男。ここで思い返すのが、師匠の襟立稔規氏の「この味がわかるなら、誰でも焼けます」のひと言。辿り着くまでやれば、絶対にできる。「一点の濁りも無い」珈琲が、次世代へ継承される日は遠くない。