さばいでぃ農園の和はっか。「生きる力」が導く世界へ

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滝上町のさらに山奥。深い森の中で和はっか畑を耕すのは、移住者でもある藤村利史さんです。かつて「光り輝く森」の中で経験した「遊び」が、大人になった藤村さんの心を今も豊かに彩ってくれています。人はこの世に生を受けた瞬間から、無限の可能性を裡に秘めているのです。実体を伴わない空虚な人間関係に振り回され、いつしか命の輝きを失い、そのまま枯れ果ててしまいそうな忙しない世界にあって、そこだけは未だに聖地。生き抜く力を手にできる場所。藤村さんはここで作った和はっかのオイルを「和はっか」として販売もしています。

Shop Data

さばいでぃ農園(アジアの衣料・布・小物「さばいでぃ」)
住所 滝上町滝西東7
電話番号 0158-29-4158
営業時間 11:00~16:00
営業日 ゴールデンウィークと10月の月初めの1週間ほどのみ営業
URL https://sabaidei.jimdofree.com
和はっかの話 10種類近い品種があります。

森の奥の大切な場所で、和はっか畑を耕すことに

「ゆっくりでいいから、前に進もう…」。そんな言葉に励まされ、導かれて、我が道を歩いている。「ポジティブだから」。自分のことを表現するのに、ためらわないで口にできる言葉を持っているところにも、とても共感を覚える。

曇り。後、晴れ。時々、雨模様。奥深い森の果てに、ポッカリと穴が開いたように広がる畑地の天気は変わりやすくて、驟雨(しゅうう)に見舞われたかと思えば、瞬きしている間に、狭くて小さな空はみるみる青空に変わり、陽がさんさんと降り注ぐ。

「きっと、しょっちゅう虹が舞い降りてくるんだろうな」。小っちゃな空に架かる虹。いつか、目にしてみたいなと思う。

地元農家の人たちから見れば、ここほど畑作に向かない土地はない。近くを川が流れ、畑の隅っこには、山からの水をいったん堰き止めるための「明渠(めいきょ)」までも設けられているようなところ。大昔から、川や無数の流れによって山から運ばれてきた大小の石がゴロゴロとしていて、「どうして、ここで畑作を?」と考えるほうが、多分、一般の世の中では「普通」。

でも、藤村利史さんにとって、この土地は特別なところ。幼い頃からずっと、夏の1ヵ月ほどを過ごしてきた「森の中の大切な場所」とこの畑地は、隣り合わせているのだから。藤村さんにとっては、誰が何と言おうが、何物にも代えがたい光り輝く一等地。酪農家が牧草地として使っていた土地を借り受け、「もぐり」ではない「正式な農業者」として一歩を踏み出そうと決意を固めるのに、きっと、他の場所など考えられなかったことだろう。2015年頃、藤村さんはこの土地で和はっかを育てることに決めたのだ。

滝上町の宝、和はっかを自分の手で発信したい

和はっか栽培では、語り尽くせないほどの長い歴史を持つ北海道。でも、戦後になって、外国からの安価な輸入品に押され、多くのはっか農家が作るのをやめてしまっている。経済的要因が大きいと思われるが、栽培に手がかかることも原因のひとつかもしれない。

和はっかを栽培する農家が激減する中、滝上町ではわずかな農家の手によって、貴重な苗が今日まで受け継がれてきた。経済性以外の何か。きっと、和はっかを守りたいという強い意思が働いてのことだ。細々とではあるけれど、和はっか栽培は確かにここまで続いてきた。今では、滝上の宝のような和はっか。その栽培の一端を担いたいと藤村さんが心を決めたのは、「(移住者だった自分を)ここまで受け入れてくれた地域の人たちに、恩返しがしたかったから」に他ならない。

「滝上のものを自分の手で発信できたら面白いだろうな」。「滝上の産業として育ててみたい」。

除いても除いても、次から次へと。まるで、土の中から生まれ出てくるかのようなたくさんの石っころ。藤村さんは来る日も来る日も、石を拾い、掘り起こし、地道な作業を続けてきた。「丸1年は石拾いに明け暮れた」。トラクターが壊れるくらいたくさんの石が出てきた。石を除き、少しずつ畑地を広げては、秋を待って、和はっかの苗を植えていく。地中から大きな石が出てこなくなって、「やっと…」と肩の荷を下ろし、ひと息つけるまでに1年間。長いのか短いのか。続けた甲斐あって、確かに石は少なくなってきた。けれど、和はっかの不作は最初から変わることなく、今も続いている。「ずっーと、不作」。それも、そのはず。元々、ここは畑作には向かない土地なのだから、収量が少ない点は受け入れるしかない。

山と山の間にあれば、当然なことに日照時間は短い。梅雨みたいにシトシトと雨が続くことが多いのも、山の中だから。「何も、こんなところで畑作をやらなくてもいいんだぞ」。地元の親しい農家からそんな言葉をかけられることもあったという。条件のいい土地に比べると、今も6~7割ほどの収量にとどまっているのだそうだ。

でも、藤村さんにとっては、どんなことがあろうとも、この場所が自分にとっての最高の場所であることに変わりはない。2人の子どもが自立するまでは責任があるからと、地元の酪農家や農家、設備屋などで働きながら家計を支えている。仕事の様子を見ながら、休みをもらっては、この特別な場所で、ひたすら和はっか栽培を続けているのは、裡に秘めた思いに導かれてのことなのだろう。

子ども時代を過ごした「森の子どもの村」との出合い。移住へ

藤村さんは東京からの移住者だ。ひと口に東京と言っても、西側の外れのほうまで行けば、意外なほど緑豊かなところも多い。生まれたのは青梅市。山や川に恵まれた土地柄で、どこまでものびのびと育つが、小学校1年生の時に、都内、世田谷区に越すことになる。友だちや多くの大人たちが心配してくれた。「あんな都会に行っちゃって、大丈夫なのかしら?」。両親としても、きっと同じような気持ちだったことだろう。

大都会の世田谷で暮らし始めて4年目の夏休み。両親から「北海道に行ってみないか?」と、夏休みの過ごし方を提案される。男兄弟ばかり、3人。兄と双子の弟、そして藤村さんは、滝上町の森の中で行われている「森の子どもの村」のサマーキャンプに参加した。およそ1ヵ月間。両親の元を離れ、大勢の仲間たちと一緒に、自分たちだけで過ごした初めて
の夏休みだった。

たくさんの友だちができた。子どもの村には、全国から子どもたちが集まっていたから、たちまち大勢の友だちができていく。普通の関係じゃない仲間たち。普通では考えられない絆でつながっている。しかも、新しい夏を迎えるたびに、新しい仲間が増えていく。言うなら、兄弟みたいな関係だ。「今も、ネットワークは全国に広がっていて、それがさらに子ども世代、孫世代と続いていて…」。今も親しくつき合う仲間たちが全国にいて、なおかつ裾野は広がり続けている。

あの時以来、高校の3年間を含めると、藤村さんは9回ほどの夏休みを森の中で過ごしてきたことになる。高校生になる頃には、年下の子たちの面倒を見るスタッフ的な立場になっていた。「ここは自分たちの場所」。この場所で寝て、遊んで、食べて。いつしか、「ここがふるさと、ここが自分の居場所になっていた」。藤村さんはいつの頃からか、北海道で暮らしたいと思うようになっていく。

高校を卒業すると藤村さんは、北海道に移り住むためにアルバイトを始める。お金を貯めようと考えたのだ。就職するつもりなど、さらさらなかった。進学する道もあったはずだが、とにかく、目指すは北海道。アルバイトをしながらの4年が経った頃に、まずは札幌に移り住む。ずっと憧れてきた北海道での暮らしのはずだった。藤村さんは、相変わらずアルバイトをしながら、心のふるさとである「あの森」へ、札幌から通い続けていた。

「あれ、これじゃあ、東京にいたときと何も変わらないなァ」。札幌にしても、東京と同じ大都会。都会で働きながら森の中へ通う点では、何ひとつ変わるところがない。藤村さんは、思いきって滝上に移り住むことを決意する。札幌から滝上へ。今度は、子どもの村で出会った美香さんも一緒だ。藤村さんはすでに結婚し、25歳になろうとしていた。

アジアの衣料・雑貨の店、「さばいでぃ」の誕生

2度目の移住を前に、藤村さんと美香さんはアジアの国々を訪れることにする。友人がタイにいた。「来たら、遊んでやるぞ」と誘われ、まずはタイへ。ネパールやラオスにも足を伸ばす。面白い雑貨や洋服を目にして、「もしかしたら、(これらを販売すれば)副収入になるかも」と、いつの間にか、訪れた先々で仕入れのようなことを始めていた。

帰国して滝上に拠点を構え、持ち帰った雑貨類を催事などで売ってみると、売れ行きは上々だった。「もしかすると、本業にできるかも」と、それ以来、直接買い付けに行ったり、現地の仲間を通じて仕入れたものを販売するようになっていく。これがアジアの衣料・布・小物の店、「さばいでぃ」の原点だ。今(2020年)はコロナ下で、仕入れのためにアジア各地を訪れることはできないけれど、現地にいる仲間が、商品を見繕っては送ってくれる。「落ち着いたら、また、仕入れに行きたい」。行動力のある美香さんの気持ちがウズウズと疼いている。

下の子が乳離れしたタイミングで、美香さんは店に力を入れるようになっていく。催事などに積極的に出展しては、さばいでぃの名前を広めていった。

滝上町の滝西地区の集落にあるさばいでぃの店に案内された。店というより、「倉庫」なのだそうだ。まるで、店のように商品が展示されているから、「買い物の楽しみ」も存分に味わえる。

素敵な腰折れ屋根の建物。とうに築100年は超えている建物に手を加えたのは、これも仲間たち。春のゴールデンウィークと10月の月初めの1週間ほど、年に2回だけ。カフェとしてオープンするこの建物に集う大勢の人たちの様子を想像するのは、それほど難しくはない。100人を超える人が集うという気持ちのいい賑わいにはきっと、森の中にいるかのような自然体の心地良さが漂っているに違いない。

頭と心を巡らせながら、夏の間中続く、草取り

和はっかの芽が出始めるのは5月上旬。それからおよそ4ヵ月と少しで、収穫時季が訪れる。幼かった和はっかの芽がグングンと育って、9月を迎える頃には50~60センチの丈にもなる。機械で刈ることもできるのだそうだが、伸びすぎて寝てしまったり、生育が良くなかったりすると、なかなかそうもいかない。そんなわけで、だいたいは手で刈ることになるのだそうだ。

収穫までの4ヵ月間は、ひたすら草取りに明け暮れる。先が三角形、長い柄の付いた農機具を器用に操りながら、順繰りに畑を巡回しながら雑草を除いていく。作物を無農薬で育てるということはそのまま、雑草との戦いを意味している。自然農法みたいな育て方もあるのかもしれないが、刈り取ってから乾燥させて蒸留器にかけることを考えると、オイルの質を保つ上でも雑草は混じっていないほうがいい。というわけで、夏の間中、草取りに明け暮れることになる。
 
1.5メートルほど上から、除くべき雑草を見極め、農機具の先をヒョイ、ヒョイと返しながらの草取り作業。「1時間も続けたら、もう汗だくになって…」。草取りの手伝いをすることもあるという美香さんの言い回しから、夏の草取りの過酷さが伝わってくる。でも、目の前の藤村さんは極めて涼しい顔。草取りの間も、頭と心がクルクルと動いているからに違いない。

さばいでぃ農園の、和はっかオイル

頭はもちろん、身体の芯にまでしみ渡るような清涼感。甘くて、涼やかで、爽やかな和はっかならではの香り。命にまで届くようなスッキリとしたアロマ。だるくて眠気に襲われているようなとき。集中力が途切れかけているとき。多くの「不調」解消に、力を発揮してくれる。

たとえば夏。暑さのあまり目が回ってしまいそうなときも、、藤村さんの和はっかオイルはとても頼りになりそうだ。コロナ対策として着用しているマスクの下のほうに、ほんの1滴。息苦しさや暑苦しさが解消される。清涼感に包まれ、スッキリとした頭で仕事などに取り組むことができそうだ

もちろん、キャンプや登山などを楽しむ人には、虫対策にも力を発揮。腕や首筋などに軽くスーッとひと塗り。疲れ対策としても有効。消臭効果もあるなど、暮らしのいろんな場面で活躍してくれる。無農薬なので安心して使える点は、特に強調したい。

「森のこどもの村」の子どもたちも、共に畑で過ごす

和はっか畑で一人で過ごすことも多いだろう藤村さん。「(いい意味で)悶々と、いろんなことを考えているんですよ。ここで」。和はっか畑のさらに奥に広がっているはずの子どもの村。夏を迎えるたび、今も大勢の子どもたちを迎え入れている。招き入れてくれた作業小屋で、話の最後のほうになって、藤村さんが語ってくれたこと。「徳村さん(森の子どもの村の主催者)の後、森を守っていくのは俺。みんなの場所を俺がここで守る」。すでに90歳を超えている主催者の後を、どうやって、どのようにして守っていくか。草取りをしながら、農作業の合間に、いつも頭と心を巡らせている藤村さんがいる。

藤村さんの和はっか畑の周囲は山と森に囲まれている。まだ訪れたことのない子どもの村だけれど、そこにもきっと、豊かな森が広がっていることだろう。サマーキャンプが始まれば、全国各地から意気揚々とやってくる大勢の子どもたち。そんな子どもたちをどんな風に受け入れたら、自分も子どもたちも楽しいのだろう。命が輝くのだろう。

子どもたちは、藤村さんの畑にも顔を出しては、草取りを手伝ったり、ハンモックに寝そべったり、ブランコで遊んだり、眠ったり。皆、思い思いに過ごしていくのだそうだ。誰からも干渉されることのない、ひたすら自由な時間と空間。そんな場所を提供しているのが子どもの村なのだという。大人たちもいることはいるけれど、何も言わない。干渉することはない。「自分たちで火をおこして、食って、遊んで、寝る。ただシンプルに生きるだけ」という子どもの村。自然な形で、中学生や高校生たちは、年下の子どもたちの面倒を見るようになっていく。藤村さんは、そこに何をプラスしていくのだろう。

「善きこと」との出合いが、さらに善きことへと導く

子ども時代のひと夏の経験。あまりに強烈で、光り輝いていて、命そのものが歓ぶような。藤村さんに「未だに、黄金の1ヵ月なの?」と問えば、「そうそう、それ。黄金の1ヵ月」との答。あの夏の1ヵ月間の光(記憶)があれば、一生を幸せな光の中で過ごせるとでもいうような。それほどに大きなインパクト。「森の子どもの村」があの夏の間に、子どもたちにくれたもの。与えたもの。それが一体、どんなものなのか。長い間、ずっと知りたいと願ってきた。

主催者に手紙を書いたあの日から、どれくらいの年月が経ったことだろう。「12年? 13年?」。幾度かのやり取りがあって、その後、何故か連絡が途絶えてしまっていた。いつしか、遠い記憶の彼方に消えかけていたことが、さばいでぃ農園の藤村さんの存在によって少しずつ蘇ってくる。かすかな記憶に、新たな情報が上書きされることで、より一層、奥行き感が増してくる。サマーキャンプなどに参加した子どもたちの心を、彼らが大人になったこの瞬間も、弛まず育て続けていること。そんなことを知ることで、あの日に考えを巡らせていたことが、長い年月を経て、ゆっくりと実を結んでいくのを実感できる。充足感。

藤村さんが話してくれたこと。「善きことはカタツムリの速度で動く」。インド独立の父、マハトマ・ガンジーの言葉だ。心の底から「善い」と信じることさえあれば、そこに向かって、ゆっくりでいいから前に進みなさい。「そうだよね、その通りだよね」。迷うことなく、そんな風に思える。「森の子どもの村」のこと。そこに光を感じ、光を見出し、自らもそこに向かって歩こうとしている藤村さんがいる。善きことに向かって、ゆっくりと、カタツムリのように。そう、向かっているのは、あの光り輝く世界。

いつも長いひげを蓄え、長髪姿だったという藤村さんのお父さん。男の子3人を育て上げるまではと、その姿でサラリーマンを続けていた。土曜や日曜になると、家にはいろんな人たちが入れ替わり、立ち替わり出入りするような家庭で、藤村さんは育つ。とにかく「変わり者」を絵に描いたような人が父親だった。

その父親は、3人の息子に「森の子どもの村」のサマーキャンプに参加してみないかと行動を促し、果ては、息子たちが社会に飛び立つや、「待ってました!」とばかりにサラリーマンを辞め、居酒屋を始めたという。今は亡き父親だが、「(子どもにああしろ、こうしろなど)何も言わない。変わった父親でした。でも、とにかく、ありがたかった」。藤村さんにとっての「善きこと」はきっと、このようにして育まれ、だからこそ、さらに大きな「善きこと」に出合うことができたのだろう。

(取材時期 2020年7月25日)

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この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.64
「手紙に添えて」

コロナ禍を受けて。届けたい足元の豊かさ、今、変わらない思い、気づいたこと、考えたこと。変えていこうとしていることを綴った手紙。

この記事を書いた人

萬年とみ子

紙媒体の「northern style スロウ」編集長。2004年創刊以来、これまでに64冊発行してきたなんて、…気が遠くなりそう。加えて、デジタル媒体を目にできる日がくるだなんて!畑仕事でもして、体力、つけなきゃ!