根室の自然が産む味 チーズ工房チカプ

根室といえば、北海道でも秘境感漂う「地の果て」のイメージが強い場所です。濃く立ち込める霧や、寒冷地に咲く花、海の向こうに見える島々、木々で歌う野鳥。満天の星空に天の川を眺めるのが日常のこの場所で、チーズ造りに取り組む2人の移住者夫婦がいます。この地で生み出されるチーズは、どんな味わいを感じされてくれるのでしょうか。(取材時期/2016年5月)

Shop Data

チーズ工房チカプ
住所 根室市川口54-3
電話番号 0153-27-1186
営業時間 11:00~16:00
営業日 金・土・日曜日
URL http://www.chikap.jp
ツウな食べ方 ハードパンにとろりと溶かして・・・

素朴でまっすぐな味。北海道の牛乳の味。

根室という小さな街にチーズ工房チカプが誕生したのは、本当に突然のことだった。東京で忙しくも充実した日々を送り、まさか北海道の東端の街にくるだなんて想像すらしていなかった2人。初めて訪れた日からほんの数ヵ月のうちに、海を渡ってこの地に立っていた。

「どんな味がするのだろう」。チカプの存在を知ってから、可愛らしい野鳥がデザインされたチーズが気になって仕方がなかった。東京から来たという単純な情報から報から、都会的な味なのか、個性的なフレーバーなのか、ぐるぐると勝手な想像までも膨らんでいた。

ある日、興味と期待を抱いて訪れた工房で最初に口にしたシマフクロウという名のチーズは、予想に反して、素朴でまっすぐな味がした。北海道の牛乳で造ったチーズの味。牧場で飲む新鮮な牛乳の味わいが活きている。焼いたジャガイモの上にとろりと溶かしたら…。しっかりと小麦の味の感じられるハード系のパンに乗せて焼いたら…。私たちのごくごく身近にある素材にシンプルに合わせれば、きっと互いを引き立て合ってくれるに違いない。そんなイメージがどんどん湧いてきた。

菊地亮太さん、芙美子さん夫妻が営むチカプは、根室市の西側、横峯牧場の敷地内にある。オープンしたのは2013年12月。それまで2人は、揃って東京でコンピュータ関連の仕事に就いていた。亮太さんはシステム開発。芙美子さんはウェブデザイン。どこかへ移住しようという意志があったわけではなく、当時の仕事をそれなりに気に入ってもいた。「このままずっとこの会社にいるのか、それとも何か別の道を探すのか。何となくそう思うことはありましたが、特に転職を考えていたわけではありませんでした」。決定的な2人の転機は、2011年5月に、姉夫婦が営む牧場を訪ねた際にもたらされた。

「場所が空いてるんだけれど、チーズ工房やらない?」

芙美子さんの姉である横峯祐子さんと、夫の庸さんは、ひと足先の2011年春に、根室市内に酪農での新規就農を果たしていた。離農跡地を引き継ぐ形で始めた酪農。敷地の隅には、前の牧場主が建てた小さな加工場があった。「『場所が空いてるんだけれど、チーズ工房やらない?』と言われました。とはいえ、初めから真に受けていたわけではなくて。あるとき旅行のつもりで遊びに来てみたんです」。姉たちの暮らしぶりを見るために、根室を訪れた2人(当時はまだ結婚はしていなかった)。「それまでにも北海道には何度か旅行したことがあったんですが、根室には一度も来たことがなくて。同じ北海道でも、他の地域とは風景が全然違うので驚きましたね」。空の色、風の温度、樹木の種類…。眼前に広がる景色を構成する要素の一つひとつが、今まで見てきたものとはまるで別物。異国に来たかのように錯覚するほどだったという。「何とも言えない景色が広がっていて、感動しました。馬が走っていて、『すごい!』と思ったり。野生の馬が北海道にいるということも知らなかったですし」。この経験を機に、2人は急速に根室に心惹かれていくこととなった。

流れ、とひと言で済ませてしまえばその通りなのかもしれない。しかし、何か強い力によって定められているかのように、2人が根室に惹かれると同時に、移住のための環境があっという間に整っていった。「まず、見せてもらった工房がすごくきれいで、機材もそのまま使えそうなものでした。もちろん素材は姉夫婦の牧場の牛乳があるし。それに、私たちはチーズなんてシロウトだったけれど、姉夫婦がお世話になっていた中標津のチーズ工房の方が、『やるなら教えてあげるよ』と快く言ってくださっていたんです。環境が先に整っていって、最後、『あとはもう、お前たちが来るだけだぞ』って言われているような気がしました」。彼らが楽しそうに、自由に仕事をしているように見えた。

ちょうど亮太さんが30歳を迎えたタイミングでもあった。「当時の仕事を辞めたかったわけではないんですが、根室のほうを『面白そう』と思ってしまったんです。それまでずっと会社員でしたが、根室で、農家さんやチーズ工房など、自営業をされている方とお会いしたときに、彼らが楽しそうに、自由に仕事をしているように見えたんですよね」。これまでに考えたこともなかったひとつの選択肢「チーズ職人」の道が、具体的な像を結び始めたのだった。かくして、姉夫婦を訪ねて根室に降り立ってからたったの4ヵ月の間に、退職、結婚、引っ越しという大行事をひと通り済ませてしまった2人。その年の9月には、中標津のチーズ工房での研修をスタートさせた。「いや、でもさ、甘い考えだったよね」と、当時を振り返って芙美子さん。

考えの甘さとチャンスを掴む思い切りの良さとは、表裏一体のようなものではないだろうか。チャンスを掴むか現状維持するか、何が正しかったのかなどというものは、長い年月ののちにしかわかりえないものかもしれない。「大変だったよねぇ」。言葉ではそう言いながら、裏腹、2人とも目元は柔らかく笑っている。

思った通りにはならないところが、難しいけれど面白い。

研修期間は1年半。北海道の牧場直営チーズ工房の先駆けとなった場所で、チーズ造りのノウハウを一から教わることができたのは、2人にとって幸運だった。現在亮太さんが製造しているチーズは、このときに教わった味がベースになっている。けれど、造る人や場所、そして牛乳が違えば出来上がるチーズの味も同じにはならない。試しては微調整を繰り返し、亮太さんはチカプのチーズの味を確立するため試行錯誤している。「材料は単純に牛乳と塩なのに、出来上がるチーズにはさまざまな種類がある。思った通りにはならないところが、難しいけれど面白いんです」。微妙な塩加減だったり、貯蔵庫の中で裏返すタイミングだったり。熟成期間の比較的長いチーズをメインに扱うチカプだから尚のこと、熟成に必要な目に見えない水分や菌をどうコントロールするか考えることは、実験のようで楽しい作業なのだそう。「研修させてもらったチーズ工房の方は本当に研究熱心でした。もう完成された仕上がりなのにも関わらず、いつも向上を考えているんです。私たちもそうありたいと思っています」。複雑な要素が絡み合い、無段階に熟成が進むチーズの世界に、そもそも完成という概念自体存在しないのかもしれない。

暮らす場所で生産された牛乳を、自分たちで消費する。

チカプができる前、しばらくの間根室はチーズ工房が存在しない街だった。店がオープンしてからは、徐々に地元民がチーズを求めて訪れるようになった。根室のお土産ものとして、訪問先への手土産の注文も増え、苦手だと思っていたチーズを食べられるようになったといううれしい声も寄せられた。「根室は放牧をしている酪農家さんがとっても多くて、おいしい牛乳が生産されているんですが、それを加工している人がいない。地元ではなかなか消費されないということですね」。自分たちが暮らす場所で生産された牛乳を、自分たちで消費する。わずかながらもそれができること、そして、その考え方を発信できることが、夫妻にとっての喜びだ。

持つ物が減った分、増えたのは、人との関わり。

「毎日天の川が見られるんだって、本当にびっくりしました」。毎日景色を見て、毎日感動する。根室に来て得られた暮らしは想像していた以上に「ここならでは」の体験に満ちていて、おそらく誰もが感じるはずの田舎特有の不便さは、2人にとって何の問題にもならなかった。物質的に必要なものは、実はそう多くない。

本当に必要なものをじっくりと吟味して、大切に使う。持つ物が減った分、増えたのは、人との関わり。小さな街ならではの横の繋がりの強さは、ときに強力に背中を押してくれる。「野菜や魚をいただいたりする環境が新鮮でした」。こちらに来てしばらくの間、芙美子さんが酪農ヘルパーとして働いていたことも、地元の農家の人と繋がるきっかけになった。「あの時に知り合った人が、お客さんとして来てくれるんです。店のお客さん第1号は、知り合いの農家さんでした」。

手放すことをためらって両手をふさがったままにしていては、新しく訪れる何物も受け止めることができない。菊地夫妻はたくさんのものを手放して、その結果、今まで見たことのなかったものを数多く手にした。「東京ではずっとユーザーが見えない仕事をしていましたが、こちらに来て一気にお客さんとの距離が近くなりました。これが自営業の醍醐味なんですね」。

身近な素材に自分たちの技術を組み合わせ、自分たちが暮らしていけるだけの収入を得る。2人で持ち切れるだけのものを持ち、小さな循環の中で生きる。じっくりと、ゆっくりと熟成されていくような日々に、喜びと楽しみを見出した菊地夫妻の姿があった。

この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.47
「馬の温もりと共に」

圧巻の迫力がありながらも、どこか愛くるしい馬たち。北海道には開拓の時代を超えてもなお、大切な仲間として、馬と共に生きる人々がいた。

この記事を書いた人

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片山静香

雑誌『northern style スロウ』編集長。帯広生まれの釧路育ち。陶磁器が好きで、全国の窯元も訪ねています。趣味は白樺樹皮細工と木彫りの熊を彫ること。3児の母。