1998年からガイド業を始め、2000年に根室ネイチャーセンターを立ち上げた澤尾秀勝さん。カヌー、バードウォッチング、クルーズツアーなど、根室の自然と親しめるさまざまなネイチャーツアーを提供しています。この記事で体験したのは、春と秋のみ実施しているシマフクロウコース・オンネベツ川カヌーツアーです。(取材時期/2019年10月)
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根室ネイチャーセンター
住所 根室市常盤町3丁目19-8
電話番号 0153-27-1434
URL https://www.canoecraft.net/naturecenter
根室の川の見どころ 山のない根室の川には流れがほとんどなく、周りの景色が川面に鏡のように映り込みます
根室の森を穏やかに流れるオンネベツ川をカヌーで
茶色く枯れたヨシが頭上に覆いかぶさる岸辺からカヌーで漕ぎ出す。緩やかにカーブするほっそりとした川にはほとんど流れがない。しばらくすると川幅は一気に広くなった。
白い樹皮を晒して林立するトドワラは、遠目にもはっきりとわかった。トドワラとは、海から上がってきた海水の影響で立ち枯れたトドマツのこと。白骨化した生物のなれの果てのようにも見えて、どこか異様な雰囲気を漂わせている。水辺近くにあったトドワラは、すっかり穴だらけになっていた。アカゲラなどのキツツキが、餌を採ったりねぐらにしたりするために空けた穴。いずれは腐朽が進み、折れて、ゆっくりと土に還っていく。悠久の時の流れというものを可視化したならば、こんな光景になるのだろうか。
パドルでかきわける川面は、ほんのり赤みがかった茶色。前日に降った雨の影響で水底まではっきりと見通すことは叶わなかったが、午後の陽差しに反射して紅茶色に輝いている。数千年以上にわたって堆積した泥炭層を伝って染み出した雨水などが作る川ならではの色だ。
空には群れを成して飛ぶハクチョウたち。晩秋のほんのり鈍い空の色に、白い身体がくっきりと浮かび上がる。10月末、遠くロシアから冬を越すために渡ってきたばかりなのだろう。
「アラスカとか、北極圏で見られる光景が、ここで見られるんですよ」。一艘のカヌーに乗り込んでオンネベツ川を案内してくれたのは、根室ネイチャーセンターの澤尾秀勝さん。前後に並んで同じ方向を向いているため、その表情を伺うことはできない。けれど、笑みを浮かべて目を細めながら周囲の景色を見渡している澤尾さんをありありと想像できた。
澤尾さんがガイド業を始めたのは1998年。元々は大手飲料メーカーの営業マンで、根室へは転勤で来たという。退職を考えるようになった1995年前後は、「カヌーづくりが流行っていた時代」。テレビ番組などでも盛んに取り上げられ、道東の自治体でもカヌーづくり教室が開かれるほどだった。ものづくりが好きだった澤尾さんもその教室に参加。休日を利用して通い、1年かけて自前のカヌーを完成させた。
その頃には、カヌー制作を仕事にしようと考えるようになっていた澤尾さん。さらにカナダなどから専門書を取り寄せ、独自に研究。材料の伐り出し、パドル製作なども自らの手で行った。ただカヌー製作の依頼はそうそうなかったため、「食べていくために」、他社のカヌーガイドを手伝うようになる。それからガイドとしての仕事を中心に行うようになっていったそうだ。
まるで北米。根室の特異な自然環境に魅せられて
澤尾さんを夢中にさせたカヌーの魅力とは何なのか。尋ねてみると、「人が自力で水上を移動できる最小規模のものってところ」と返ってきた。「大げさな装置は何もいらずパドル1本で行き来できる。水辺の生活の原点みたいな道具ですよね」。
カヌーとは、もともとインディアンが使っていた移動手段。その形状を見れば、どんな地域に住む部族かまでわかったそうだ。幅があり舳先が高く反り上がっているカヌーなら、川の流れが速く波が高い岩場が多いところ。舳先が低くスラリとした形なら、湖のように流れや波がほとんどないところ。ちなみに澤尾さんがガイドで使うのは、その中間タイプ。
ガイドのイロハは、主に釧路で自然ガイドをしている知人に釧路湿原で教えてもらった。ガイドをするからにはと、「素人ながら」自然や動植物のことを調べるにつれ、ある発見があったという。「根室の自然は、他の地域とは少し違うようだぞ…?」。
限られた場所でしか目にできないトドワラ。本州では標高2000メートル級の場所でしか見られない珍しい地衣類が平地で普通に見られ、鳥好きな人たちが憧れの眼差しを向けるほど種類豊富な鳥類が生息する。
単純な観光需要を考えれば、釧路を拠点にすることも考えられた。根室に転勤になったばかりの、「なんだか寂しい場所だな」と感じていた頃の澤尾さんだったら、迷わず釧路を拠点にしていたかもしれない。けれど、他の地域では見ることのできない景色が根室にあることを知るにつれ、この場所の価値を見出していった澤尾さんがいた。「カヌーをやることを目的にするんじゃなく、根室の自然と触れ合うための手段のひとつとしてカヌーがある」。そう考えて、根室で20年、ガイド業を続けてきたという。
「自分は専門家じゃないから」。気負いない言葉には、澤尾さんのガイドのスタンスが凝縮されている。自分は動植物や自然の専門家ではない。だから、「お客さんと一緒に楽しむ。お客さんに遊んでもらっているような感覚」。知識を伝えるよりも、目の前の感動を共に分かち合うことを大切にしている。
人と野生動物が築き上げてきた、ほど良い距離感と関係
澤尾さんが根室に暮らして実感しているのが、「自然と人の暮らしが近い」ということだ。その象徴的な例が、オンネベツ川のタンチョウと漁師の関係性だろう。
カヌーで川を進んでいると、この周辺で2組のタンチョウの夫婦が暮らしていることを澤尾さんが教えてくれた。「今日はいるかな? あ、いたいた」。澤尾さんが指さす右手の岸には、スラリと優美なシルエットのタンチョウが2羽。
「今年は子育てに失敗しちゃったみたいなんですよ」と、ちょっとしんみり。十分に離れた場所にいるにも関わらず、盛んに鳴き声を上げて警戒してくる。クエーッとオスが鋭く高い声を上げると、クェェェとやや震える声でメスが応える。
「オスが『気をつけろ』って言って、メスが『わかったよ』って言ってるみたいですね。もう長年通っているから、そろそろ慣れてくれてもいいのにって思うんですが(笑)。でもね、地元の漁師さんがここを船で通っても何とも言わないんですよ」。それが少し悔しくて知り合いの漁師に何故かと尋ねたところ、「年季が違うからね」とあっさり返されたそう。「ひいじいちゃんの時代からのつき合いで、タンチョウに船も人の顔も覚えられているそうです。それにはもう敵いません」。
互いに時間をかけて築き上げてきた、ほど良い距離感と関係性。澤尾さんが20年かけても達することのできないその域へ、私たち人間が再び戻れる日はいつのことだろう。途方もなく感じられるけれど、タンチョウと漁師の話を聞いた今なら、不可能ではないと思える。
しばらく観察していると、オスは警戒を解かず、メスばかりが餌を食べていることにも気づく。「かかあ天下というか、オスがメスを大好きすぎるんです」と澤尾さんが笑った。タンチョウの夫婦は生涯相手を変えず、とても愛情深い。特にオスはかいがいしく妻の世話を焼く。そう聞いたことはあったが、実際に目にすると実に微笑ましい。
岸辺には、エゾシカが川を泳いで渡った際に周囲の草が倒されてできたと思われる小さな道ができていた。エゾシカのオスが、どこか遠くでピューイと鳴く。最初は高く、徐々に低く唸るように。自分が最も強いのだと、高らかに名乗りを挙げているのだ。これから繁殖期を迎える彼らにとって、避けては通れないオスどうしの戦いが始まろうとしている。
ふっと風が止んだ。その瞬間、暮れなずむ太陽の光に照らされてやわらかい金色に染まったヨシ原が、鏡のような水面に映る。時刻は15時を回る頃。16時を過ぎれば日没。あまりにも早く沈んでしまう太陽に寂しさを覚えつつ、この光景に出合わせてくれたことへの感謝を心の中で唱えていた。
美しい苔の森に流れる時間に、未来への希望を感じて
カヌーを降りて車で帰路に着いても、ふわふわと心地良い余韻に包まれている。ちょっと寄り道しましょう、と澤尾さんが車を停めたのはオンネベツ川にほど近い森の中。そこには美しい苔の森が広がっていた。分厚い苔は触れると生き物のようにふかふか。紅葉したゴゼンタチバナが、折り重なった緑に鮮やかな差し色となっている。しっとりとした匂い。アカゲラが木をつつく、ココココンという音楽。漂う神聖な空気に、思わずじっと息をひそめた。
澤尾さんが案内してくれたのは、アカエゾマツの森。「根室の森にもかなり人の手が入っていますが、こんな場所がパッチワーク状に点在しているんです。面白いでしょう」。木が少しずつ苔に覆われ、やがて朽ち、再び長い時間をかけて森が更新されていくのだ。
時間というのは流れるばかりで、遡ることはできない。けれど、その流れに寄り添うことはできるのではないだろうか。静かに流れていくオンネベツ川や、あのアカエゾマツの森に流れていた時間。その流れに寄り添いながら歩いていける未来があると、信じていたい。
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