時をかけるポー川に乗って。ジャングルのようなカヌー体験

ヘビのように蛇行するポー川。流れは緩やかだけど、草木が視界を遮ります。ジャングルのように横たわる木々。それを縫うように進んでいく。道東に生息するほぼすべてのほ乳類が暮らしているポー川。動物のことも植物のこともよく知っている“おじさんガイド”に導かれる旅は、他のカヌー体験とは一味も二味も違いました。

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標津町観光協会
住所 標津町北2条西1-1-3
電話番号 0153-82-2131※2日前までの要予約
URL http://www.visitshibetsu.com
料金 4,800円/1名
期間 5~10月頃
所要時間 約2時間30分
ガイド井南さんの仕事 ガイド業をしつつ、会社の事業でシャインマスカットの栽培にも挑戦中。

世界一の遺跡を知り、1万年前の暮らしを空想する

考古学の世界では有名な話らしい。「世界最大級、いや世界一と言ってもいいくらい」と標津町ポー川史跡自然公園の学芸員、小野哲也さんは言う。ポー川伊茶仁(いちゃに)川流域に広がる標津遺跡群には、約4400軒の竪穴式住居跡が残っている。その中核遺跡である伊茶仁カリカリウス遺跡には半数以上の2549軒があり、ひとつの遺跡としては日本最大の竪穴数を誇る。

ポー川上部の森にある遺跡群。そこにポコポコと穴が空いている。すべてが住居の跡。今までは「1万年と言われても…」と、古代のことはなかなか自分事に思えなかったけれど、ポー川や遺跡群を目にするとパッとイメージが広がった。狩猟や採集で生計を立てていた人々。サケを求めて川に向かう父がいて、母は森で木の実を採集し、子どもたちが近くを駆け回る…。

標津町に世界一の遺跡があるなんて、ちっとも知らなかった。詳しく知りたい気持ちがムクムクと湧いてくる。もちろん同時期に4千軒の住居が存在していたのではない。1万年前から西暦1300年代にわたって、それぞれの時代にさまざまな人が暮らしてきた証。同時代、ひとつのエリアにあった家は多くても20軒程度。魚や動物、木の実の資源は限られているから、その土地の自然が受け入れられるだけの規模の集落が維持され続けてきた。1300年代といえば、本州は鎌倉時代。武士は立派な武家造りの家に住んでいた。武士と農民、はっきりとした上下関係があった。一方で北海道の暮らしは竪穴住居。現代人の感覚では決して洗練された暮らしではなかったかもしれないが、平等で、争いはなかった。縄文時代から引き続き、限りある資源を分け合って生活していたのだ。その後アイヌ文化へと引き継がれて、和人がやって来る1700年代までは、四季ごとの自然の変化に合わせて営まれたライフサイクルに大きな変化はなかったという。小野さんは「北海道は歴史がない、短いと言われるけれど、文字に記されていないだけで、自然の中に遺跡としてその痕跡が残っている。そこが面白い」と話す。

カリカリウス遺跡では大量のサケの骨が見つかるなど、文字情報ではなく、生活の痕跡から伝わってくるものがある。この事実を先に知ることができたことで、その後のカヌー体験が何倍も面白いものになった。

人間にコントロールされていない、ポー川

標津町観光ガイド協会のベテランたちに導かれて、いよいよポー川をカヌーで下る。身に付けるのは救命胴衣のみ。あとはパドルを持って乗船。「落ちたらどうしよう」と思ったが、水面は穏やかだ。「僕はね、泳げないんだよ。装備さえしていれば怖くないよ」とガイドの田村憲夫さん。泳げなくてもカヌーのガイドになれるのか。74歳の笑い話に、ほんの少し残っていた恐怖心も消えた。

ゆらゆらと川の流れに沿って進むだけだから、頻繁にパドルを使う必要はない。ときには行く先を塞ぐような木々が目の前に現れ、かわすルートを考えながら進んでいく。北海道なのに、まさにジャングル。覆い被さってくる木々をかき分けると、隙間から青空が見えた。今までに経験したカヌーとはまるで別物だった。

「ほら、ここ! 見てごらん」。田村さんが見つけたのは、動物の足跡。ヒグマの足跡が見つかることもあるという。田村さんはハンターの経験も豊富だから、動物に詳しい。「シカは集団行動だけど、クマは単独行動。自分で自分を守らないといけないから、気が小さい。クマは人間みたいな奴だよ」とニヤリ。ポー川には現在も800種以上の昆虫、400種以上の植物、動物は日本最小のトウキョウトガリネズミから最大のヒグマまで、道東の低地(陸上)に暮らすほぼすべての哺乳類が生息しているという。

ポー川は人間にコントロールされていないから、自然の川の成り立ちを知ることもできる。川には瀬と淵があること。古い川から独立してできた三日月湖があること。いつだって氾濫したくて、自由になりたがっていること。多くの川では氾濫を防ぐために、コンクリートなどで流れが矯正されている。人間が生き残っていくためには仕方がない面もある。でもポー川の周辺には住宅がないから、今でも自然の状態のまま残されているのだ。ポー川は人間の干渉を受けずに生きている。だからヘビのようにグネグネと蛇行している。

「ポー川だって、人間みたいな奴だな」。そんなことを考えたり、ガイドに導かれて黙って野鳥の声を聞いているうちに、約1時間30分の旅はあっという間に終わった。

都会の人々の心を洗うカヌー体験

「おかあさん、木が笑ってるね」。風が吹くポー川の様子をこう表現した子どもがいた。カヌーの旅の後半、ガイドは「何も話さなくていい。自然に耳を傾けて」と言う。ポー川は人間の感性に訴えかける力がある。

ポー川のカヌー体験が面白いのは、ガイドの力によるところも大きい。平均年齢60代後半。バリバリの現役からは退いて、地域に貢献したいと意気込む“おじさん”たちが中心。2000年から標津町のガイド育成の取り組みが始まり、20年以上。最初から関わり続けるおじさんもいれば、次世代の若い人もちらほら。

田村憲夫さんは中学から標津を離れて室蘭へ。酪農学園大学を卒業し、地元で土地を開拓して牛飼いになった。多いときは80頭の牛の乳を搾り、150~160頭を飼育。家族経営で頑張ってきたという。1997年に離農、その後共済組合で働いていた時、新聞でガイド募集を知り講習に参加した。「元々自然が好きでね。学生時代から父とハンティングをやっていた。酪農を始めてからは、ヒグマがよく出たからね。必要に迫られて」。狩猟の世界は横のつながりが強く、そのつながりを通して本州からの体験希望者がやって来ることもある。田村さんは他地域の人と交流することで、地元の魅力を再認識したという。

「人を見たり、話すのが好き」という田村さんは、修学旅行でカヌー体験に訪れた本州の高校生から、相談を持ちかけられたことがある。「高校を辞めたいっていう友達がいるらしくてね。いろいろ話を聞いて、『決めるのは本人』とアドバイスしたよ。身近な人には言いにくいことも、カヌーの上でなら相談できるのかも」。2人きりのカヌー。聞こえるのは動物とガイドの声だけ。知らないおじさんと1時間30分を過ごした少年から、後日お礼のハガキが届いたという。田村さんの声は、彼の心にきっと届いた。

ある年配の夫婦の話もしてくれた。いざ体験を始めようしたとき、男性から「実は家内は目が見えなくて…」と打ち明けられたという。田村さんたちは対応の経験がなかったから、当然反対。それでも女性は「今まで一度もカヌーに乗ったことがない。どうしても乗ってみたい」と熱心に食い下がり、田村さんたちはとうとう根負け。細心の注意を払ってカヌーに乗ってもらった。最初のうちはいつも通り話していたけれど、目が不自由なら情景を説明するより感じてもらったほうがいいと判断して「自然にまかせてください」と伝えた。水面に浮かんでいる感覚。鳥の声や風の音が響く。ガイドを終えて岸に上がったとき、その女性はスーッと涙を流していた。「こんな…こんな…、感じたことがなかった。どうもありがとうございます」。

うっそうとした木々をかき分けて、動物の生き様を知り、植物の力強さを知るだけではない。始めこそ道なき道を進むスリルを感じるけれど、途中でハッと気づく瞬間がある。カヌーに乗っているのではなく、川に乗っているような感覚。パドルを上手く操れなくてもいい。感じてほしいのは、ポー川の歩んできた道。

ポー川を守りたいから、無理はしない

井南進さんは2019年からガイド協会の会長を務めている。標津町出身で21歳から地元の建設会社に勤務。土木工事の現場監督などを行ってきた。山登りが好きだったから、標津のガイド企画に参加するのは自然なことだった。

「ガイドはお金をもらって案内をする仕事。事前に知識をしっかり頭に入れなきゃ」とガイド協会の仲間うちでマニュアルを作って共有している。だが、ポー川のベテランガイドの専門性は高い。動物に強い人がいる。植物が好きな人がいる。歴史に詳しい人がいる。地層だってお手のもの。それに加えて標津で60年以上生きてきた経験が、体験する人の心に響く。

「ずっと標津に住んでいるのに、ガイドを始めるまでポー川や遺跡のことを何も知らなかった。もしかしたらまだ地元でも知らない人が多いかもしれない」。奇跡的に開発の手が入らずに残されたポー川や遺跡群。「京都や大阪はオーバーツーリズムと言われるほど、観光客が多い。その分失われてしまった自然環境もある。環境と観光は共存しなきゃ。標津湿原の自然を守りながら、魅力を伝えるのが私の使命」と、井南さん。

田村さんも、ポー川に人を連れて行きたくないという複雑なジレンマを抱えているという。カヌー体験が続く限りは舟を漕ぐ。でもそれが自然環境を侵すのなら、無理をする必要はない。「お客さんはそんなに多くなくてもいいから、自然を愛してくれる人が来てくれるといいな」。ガイドの思いはひとつだ。

「夢を重ねて1万年」。井南さんはこう、ポー川にキャッチコピーを掲げる。いろいろな人がいろいろな夢を抱いて、1万年の時が流れた。井南さんの夢を尋ねたら「焼酎飲んでボーっと暮らしたいね」と。ポー川はきっと「好きにしたらいいよ」と返すだろう。誰よりも自由で、長い時間を生きてきたから。

(取材時期 2020年5月25日)

この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.63
「カヌーで辿る、川のはなし」

「カヌーイストの聖地」と呼ばれる川がいくつもある北海道。豊かな自然、歴史や文化。さまざまな角度から北国のカヌーの魅力を伝える。

この記事を書いた人

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猿渡亜美

剣山がきれいに見える十勝の山奥で、牛と猫とキツネと一緒に育ちました。やると決めたらグングン進んでいくタイプ。明治以降の歴史や伝統に心を揺さぶられ続けています。