パン屋がつなぐ、町の記憶と懐かしの味〈さいとう製パン〉

縁あって、二代目として創業66年のさいとう製パンを継ぐことになった東北出身の四釜明拓さん。四釜さんに代替わりして大きく変わったのは、パンに使う材料です。「パンを思うことは、パンを食べる人を思うことと同じ」と、生地を道産小麦に、水を羊蹄山の湧き水に。砂糖、バター、牛乳、菓子パンのトッピングや揚げ油に至るまでを身体に優しい材料に変え、添加物を使わないパンを作ります。店だけでなく、訪れる人たちの記憶をもつなぐパンは、どこか懐かしい思い出の味がしました。

Shop Data

さいとう製パン
住所 ニセコ町本通106
電話番号 0136-44-2518
営業時間 夏季8:30~17:30/冬季8:30~17:30
定休日 土曜日・日曜日
URL Instagram:@saitoseipan
編集長の好きなパン あったらラッキー、揚げコッペパン

先代が築いてきた、さいとう製パンの歴史

世の中に、終わりのないものなどない。ごくあたりまえの自然の摂理を前にして、ニセコ町の市街地にある小さなパン屋もまた、長い歴史に幕を下ろそうとしていた。しかしある青年の登場によって、物語は急展開を迎える。やがて、いつか終わりが来るもの。今、それらを誰かが繋いでいくことに、どんな意味があるのだろう。

1953年、狩太(かりぶと)町(現在のニセコ町)。戦後の混乱が依然として残る時代。齋藤正勝さんは豊かな物資を求めて、妻のタキ子さんと共に小樽からニセコ町へとやって来た。とにかく食糧があれば、店を開くことができる。そう考えてのことだった。同年、ニセコ町の住宅街の一角に、「さいとう製パン」は誕生した。

それ以来正勝さんとタキ子さんは2人、力を合わせて店を営んできた。小樽と比べて冬は寒く、雪は玄関の欄干まで積もる。けれど、戦争でシベリア出征を経験した正勝さんにとって、そんな厳しいまでの自然環境さえも些細なことに感じられたという。やがて人を雇い、ニセコ町とその周辺の蘭越(らんこし)町、真狩(まっかり)町、喜茂別(きもべつ)町で学ぶ子どもたちに、学校給食としてパンとご飯を届けるようになっていく。店内には飲食スペースも設けられ、学校帰りの学生や、地域住民の憩いの場として、長年愛され続けてきた。

パンを、思いを、途絶えさせないために

時は流れて2011年。タキ子さんは、長く連れ添ってきた正勝さんを病で亡くす。それでも1人、パンを焼き続けた。作るのは、一日に10本の山食パンのみ。時代は進んでも、さいとう製パンで使う機械は昭和30年代のまま。「オーブンを錆び付かせたら主人に怒られる」。毎日動かし、油を差し、手入れしながら機械と店を守ってきた。正勝さんのため、パンを待ち望む地域の人々のため。その思いがタキ子さんをパンづくりに向かわせていた。

当時御年90歳を迎えようとしていたタキ子さん。古い機械でパンを焼くことは大変な重労働だったことだろう。当時の口癖は、「誰かいい後継ぎはいないかなぁ」。事情があって店を継ぐことができない娘の順子さんは、この言葉を聞く度胸を痛めたという。「どれだけ思いが込められている場所か、わかっていたので…」。せめても、という思いで順子さんは後継ぎを探し続けてきた。

順子さんの思いは届く。ニセコ町有島地区にあるベーグル屋「SEED BAGLE&COFFEE COMPANY」(以下、SEED)。オーナーの平野大輔さんの元に、「パン屋の後継ぎを探している人がいる」という話が伝わってきた。平野さんの頭に思い浮かんだのは、たまに店に遊びに来る、札幌市のパン屋に勤める1人の真面目な青年の顔だった…。

訪れた出会いを大切に、選び取った道

石炭ストーブの香りがほのかに立ち込める工房で、忙しく立ち働く青年。四釜明拓(しかまあきひろ)さん、31歳。年季の入ったオーブンのブザーや、タイマーの音。さまざまな機械音が鳴り、その度に端から端へと走り回っては、パンを次々仕上げていく。そんな手際よい彼とは対照的に、開店までの時をゆっくり刻む、古い時計の音が心地良い。

「もちろん、最初は僕にできるか不安でした」。手を動かしながら、的確な言葉を探すように語り始めた。四釜さんは、福島県の生まれだ。地元の高校を出て、「なんとなくの流れで」近くのゴルフ場へ就職。その頃、各地を転々としながら暮らす季節雇用者と出会った。地元で育ち、地元で就職した四釜さんにとって、その人の自由な生き方は衝撃だった。「自分も新しい世界を広げたい」。

退職し、農家などで働きながら、日本全国を転々とする暮らしが始まった。初めてニセコに来たのは、ハタチを過ぎた頃。パウダースノーが有名で、世界でも有数のスキーの聖地。それを求めて世界中から人が集まる、国内でも珍しい観光地だ。文化の違いに寛容で、互いを認め合うニセコの風土は、四釡さんの価値観に近いものがあった。

あるとき、評判を聞いて訪れたSEEDで、運命の出会いを果たす。羊蹄山の湧水を使った、天然酵母のベーグル。食べた途端、「世界一おいしい」と感じた。実は小学校の卒業文集に、「パン屋さんになる」と書いていたほど、昔からパン屋への淡い憧れを抱いていた四釜さん。ベーグルとその作り手の平野さんとの出会いがきっかけとなり、パンづくりへの興味が再び静かに湧いてきた。25歳になる頃、そろそろ一箇所の店でしっかり働こうと考えるようになる。パン職人として、札幌市内の店舗に勤め始めた。

答えは案外、シンプルなもの

平野さん経由で、さいとう製パンを継がないかという話が持ちかけられたのは、札幌暮らしが3年目を迎えていた頃だった。行動力のある四釜さんとはいえ、いったん立ち止まり慎重に考えた。

規模が大きいパン屋で一部の工程のみを任されていた自分に、店を丸ごと切り盛りできるだろうか。半世紀以上ニセコ町に根づいてきた店を、よそから来た自分が継いで受け入れてもらえるだろうか。

みんなの思いの分だけ責任は重く、不安なことがたくさんあった。決心がついたのは、「店を残したい人がいて、任せたいと思ってくれる人がそこにいた」ことに気づいたから。シンプルで、必要十分な動機。「感謝してもし足りない」と、順子さんは四釜さんの背中を見ながらしみじみと言う。タキ子おばあちゃん、順子さん、地域の住民。いろんな人の思いによって、さいとう製パンの歴史は昭和から平成を跨ぎ、令和へと繋がれた。

四釜さんに代替わりして大きく変わったのは、パンに使う材料。生地を道産小麦に、水を羊蹄山の湧き水に。砂糖、バター、牛乳、菓子パンのトッピング、揚げ油。それぞれを体に優しい材料に変え、添加物なしのパンに仕上げた。

パンを思うことは、パンを食べる人を思うことと同じ

子どもの頃からさいとう製パンと共に人生を歩んできたという常連客も多い。レシピは同じでも微妙に変化した味や、避けられない値上げに疑問を呈す人もいた。けれど四釜さんにとって、パンを思うことは「パンを食べる人を思う」ことと同じ。「みんなの声を受け入れることは難しい。だからこそ、自分のやっていることを、自分で認めてあげたい」と、考えを切り替えることにした。昔からの常連客に理解してもらいながら、現役を退いたタキ子さんの生活のサポートをしつつパンを焼く暮らし。きっと、一から新しく店を始めるのとは違う難しさがあることだろう。 

いつの間にか時計の針は開店時間の10時を指していた。ショウケースに次々と並んだ焼きたてのパンが、ピカピカと輝いて客が来るのを待っている。近くの幼稚園の子ども達が散歩の途中に立ち寄ったり、新小学一年生が、小銭を手におつかいにやって来たり。函館から来た家族は、「月に一度の楽しみなの」と、とびきりの笑顔で買い込んで行った。客が来る度に心地良い風がのれんを揺らし、店内を通り抜けていく。開店以来幾度となく繰り返されてきただろう、さいとう製パンのいつもの風景。

「パンは自分の分身。だから、自分が幸せでないと」。四釜さんは取材中何度もそう繰り返した。大変なこともあるけれど、「自分が成長していて、パンが成長しているのを感じられる今が楽しい」と。もしパンが、焼く人の分身だとするならば。この店のパンはきっと、これからもっとおいしくなっていくのだろう。

この店がなくなってしまったら、悲しむ人や困る人がいる。「ここを必要とする多くの人の思いが、僕を支えるエネルギーになっている」と四釜さんは言う。他の誰でもない四釜さんが思いを受け止めたことで、さいとう製パンは続いていく。多くの人が、四釜さんが作り上げていくさいとう製パンの今後を楽しみに思っている。物語が続くということ。ただそれだけに意味があるのかもしれない。

―人生は上を見ても下を見てもきりがないでしょ。無理せず元気で続けることです。

参考文献『広報ニセコ』(2000年3月)

創業者の齋藤正勝さんがかつてのインタビュー記事で残した言葉は、時を経た今、四釜さんへのメッセージのようにも聞こえてくる。

(取材時期 2019年5月25日)

四釜明拓さん

「スロウ日和を見た」で、レジ回し体験か、さいとう製パンの昔の写真アルバムを見せます!

この記事の掲載号

northernstyle スロウ vol.59
「生きて、活きる、花」

ドライフラワーやスワッグ、ハーブティー。花期が短い北海道で、1年中花を楽しむ達人たちの暮らしのアイデアがいっぱい。

この記事を書いた人

石田まき

石田まき

スロウ日和編集長。ライター兼カメラマン。初めて訪れた北海道で、空の広さに一目ぼれ。言葉と写真の両方でこの地の豊かさを伝えるため、九州から移住。ホタテが大好物。