手仕事・手づくりの品。そう聞くと、なんだか「よさそうだな」という印象はあるのですが、つまるところその良さって、何なのでしょうか。そんな問いを心に持って訪ねた、木工飛世の工房。飛世さんの作品は、”良さ”の先にある「手仕事の魔法」を教えてくれました。触れたときの直観的な気持ちよさや心地よさだけではなく、まるで魔法にかかったように取りつかれてしまうのです。そして飛世さん自身も、手仕事の魔法をかけられた1人だったことがわかりました。(取材時期 2020年2月)
Shop Data
木工飛世
URL https://www.instagram.com/mokkou_tobise/
耳より情報 札幌市内のデパートの催事やイベントでの対面販売がメイン。情報を見逃さないで!
編集部のねらい目 つぎは、炒めベラとコーヒーメジャーがほしい。
スベスベ、ボコボコ。触っていたくなるスプーン
木工飛世(もっこうとびせ)のスプーンは、まるで魔法の道具のよう。
ふわっとした軽さ。いつまでも触っていたくなる、スルンと滑らかな表面。スッと指の腹に収まる、箒の柄のような持ち手。光がチラチラ反射する、背の部分の多角形の意匠。口に運ぶと、ボコボコとした舌触りが少し癖になる。とにかくスプーンに触れるだけで、なんだかうれしくなってくる。
「まずは、触ってみてください」。あるイベントで初めて会った時、飛世将利さんはそう言って穏やかに笑った。言われるまま、きれいにディスプレイされた作品に手を伸ばしたときにはもう、自分の手に馴染むスプーンをあれやこれやと選び始めてしまっていた。見た目はどれも同じ形に見えるのに、触れると一本一本の感じ方がまったく違う。人の手の形は一人ひとり違うから、合うスプーンも違う。「迷いながら選ぶ時間が愛着になっていってほしい」。そんな理由もあって、飛世さんは同じようで違う、たくさんのスプーンを作る。
使うほど愛着が湧くスプーンの魔法の正体を知りたくて、伊達市にある工房を訪ねた。飛世さんは、照明を消した暗い工房で、固定したスプーンにライトを当て、光の反射を見ながら表面を削っていた。
独特の滑らかな手触りは、南京鉋(ナンキンカンナ)という道具によるものだった。刃が小さく小回りがきくので、曲面や細かい部分を削るときに重宝される。中央に刃が付いていて、左右の持ち手を両手で持って手前に引いて使う。鉋を使って表面を削ることで、水が浸透しにくくなるという利点もある。口の中は敏感なので、表面がより滑らかになる鉋が適しているのだ。最後に、生息の北限だといわれている、伊達市内で採れた柿から作った柿渋を塗り、洞爺湖町の阿部自然農園のエゴマ油で仕上げる。
手にフィットする特徴的な形は、何度かの改良の過程を経て生まれた。最初はシンプルに「ハイジに出てくるような」スプーンを作ってみた。ところが、まるで手に馴染まない。作ったスプーンをじっと眺めているうち、ふと疑問が湧いてきた。「なぜスプーンは左右対称なのだろう」。いろいろ形を変えながら作り、左右非対称でも、利き手に関係なく使いやすい今の形を編み出した。
樹種は硬くてスプーンに適したサクラやイタヤカエデを。強度が増すよう、木目に沿って縦に切り出して作る。この形こそ、飛世さんの作品の象徴。「だから、焼き印は入れません」。形を見てすぐに誰が手がけたものかわかれば、生活用品に焼印はいらない。それが飛世さんの考えだ。
木工飛世の作品には、スプーンの持ち手から派生させたバターナイフやフライ返しなどを含め、生活に寄り添った小さなものが多い。けれど、かつてはイスやテーブルなど大きな家具を作っていたこともあったそうだ。
大工仕事が得意な父を持ち、幼い頃からその作業を側で見て育った飛世さん。高校から建築を専攻し、ほしかったスピーカーも自作した。このまままっすぐものづくりの人になる。周囲の誰もがそう思ったことだろう。けれど、建築写真の授業を受けたことを機に、飛世さんは写真の世界にのめり込んでいく。卒業後は商業雑誌のカメラマンアシスタントとして歩み始めた。
しかし、次第にどこかしっくりしない気持ちがつきまとうようになる。ある日、父が小学校入学時に作ってくれた勉強机に片肘をつきながら、今後のことに思いを巡らせた。「このままこの仕事を続けるのだろうか」。
考えながら、なんとなく触れた机。落書きや傷。年月を重ねた木の手触り…。そのとき、飛世さんは魔法にかけられた。
「あ、触れるんだ」。
そんなあたりまえのことが、飛世さんにとっては大きな気づきとなった。
目を瞑っても触れて、そこから伝わる“何か”がある。「その時の自分にピンときた」と飛世さん。被写体に触ることができないという写真の特性の反動があったのかもしれない。思い返せば、洋服や物を買うときも、手触りが良いものを選ぶことが多かった。「いいなぁ」と思うものはいつも、手触りが良いもの。飛世さんにとって、指先から得る感覚はとても特別なものだったのだ。それから、「手触りで表現できるもの」を作ることを思い立った。
きっかけとなったのが机だったことから、迷うことなく家具職人を志した。当時26歳だった飛世さんは、なるべく早く現場の仕事を覚えるため弟子入り先を探した。そして、長野県松本市で板を組み合わせて家具などを作る江戸指物(さしもの)の職人、前田純一氏を師と仰ぎ経験を積むことになる。
新しさより、技術の継承が重んじられることが多い伝統工芸の世界で、金属と木を融合させた新しい作風を生み出し30年も前から活動してきた師匠。どんなときも自分が作りたいものを貫く姿勢に、飛世さんはすっかり魅了された。技術はもとより、ものづくりへの向き合い方について、大切なことをたくさん教えてもらった。
厳しくも充実した修業の日々。けれど、そう長くは続かなかった。2年経ったある日、飛世さんは椎間板ヘルニアを発症。激痛で鉋を引けず、家具を作れなくなってしまったのだ。夢は絶たれ、目の前は真っ暗。失意の中、半ば自暴自棄になって「ろくに挨拶もできず」松本を去ることになった。
やっと見つけた、生涯をかけたいと思える仕事。そこから去らねばならないことへの悲しみと、身体が動かない恐怖。師匠から送られてきた慰めの手紙にさえ、返す言葉ひとつ思い浮かばなかった。
それでも、飛世さんにかけられた魔法は消えなかった。やがて「小さいものだったら座って作れるかもしれない」と、作り始めたのがスプーンなどのテーブルウェア。1時間座り続けることがやっとという体調の中、リハビリを重ねた。そして2011年、「木工飛世」の名前でイベントなどへ出展できるまでに。けれど、心にずっと引っかかっているものがあった。挨拶もできず別れてしまった、師匠への後ろめたさだった。
「何度も夢に見るんです。自分が工房にひっそり忍び込んで、師匠に見つかって。怒られるかと思いきや、『おお飛世か。手番に付け(手伝え)』と言われて」。不義理をしてしまった自分を許してもらえるのか。だけど怖くて会いに行けない。悩みは次第に「会わないと良い作品が作れない」と思うほど、飛世さんの頭の中を占拠するようになった。
新宿で作品の展示が決まったのを自分への口実に、師匠の元へ行くことを決めた。「あっけなく面会を断られる気がして」、連絡を取らないまま、向かおうとした。けれど、松本行きのバスに乗る一歩が、どうしても出なかった。工房を飛び出した日のことを、昨日のことのように思い出す。あれからすでに、9年が経っていた。
意を決し、後日再び訪問することに。今度は決心が揺らがないよう、当時の弟子にだけは、行くことを告げた。なんとか松本に降り立つ。あの頃から変わった街並み。しかし緊張のあまり、なんの感慨も抱けない。手を堅く握りしめながら、山の中腹の工房へ向かった。
「ごめんください!!」
玄関から出てきたのは、師匠の奥さんだった。
「飛世くん!!」
気づいた時には、その胸の中へ飛び込み大号泣していた。嗚咽交じりの泣き声に気づいた師匠がやってきた。
「おお、どうした飛世か!!よく来たなぁ!」
その日の夜は、これまでの時間を取り戻すかのようにあふれる思いをとめどなく語り合った。すると、思いついたように師匠が口を開いた。「飛世も弟子展(前田純一氏に学んだ弟子達の展示会)に出したらいい」。途中で辞めた自分には、弟子と名乗る資格がないのではないか。そう告げると、師匠は穏やかに返してくれた。「途中で辞めたとはいえ弟子だっただろう。お前は俺の弟子だ」。
そのとき初めて、飛世さんは自分が弟子であったことが本当の意味で事実になった気がした。向き合えなかった過去を、ちゃんと自分の一部にできたような。師匠に会った前後で、スプーンの形や作風自体は大きく変わっていない。それ以上に影響を与えたのは、創作に向き合う心に対してだった。
再会したときに言われた師匠の言葉が、飛世さんの心にずっと残っている。「物を作っているんじゃない。使った先の“未来”を作っているんだ」。
作らなければ、形はできない。でもその形は、それ自体に意味を持つわけではない。「これがあれば、暮らしがもっと豊かになるな」と思ってもらえる、「形の先にあるもの」をつくること。だから飛世さんは、何度も悩み生み出した形やこだわりについて、聞かれない限り自分から積極的に説明しようとしない。
けれど作品に込められた思いは、物言わぬスプーンが語ってくれる。直接それに触れたとき、作り手の思いや手をかけた時間が、指を通して伝わる。それが、手触りの、そして木工飛世の魔法なのだ。
魔法のスプーンを使い始めて10ヵ月。変わったのは、スプーンありきの料理を作っている自分がいること。このスプーンで食べたいのは、手間をかけて煮込んだ、温かいトマトスープ。そう。気がつけば、私もスプーンの魔法にかかっていた。